前回の記事にも書いたが、先日、女優の川島なお美さんが亡くなられた。胆管ガンだそうだ。
その前日には北斗晶さんが乳ガンを患っていること、長い闘いを覚悟されていることをブログを発表されていた。
どちらも私にとってはショッキングなニュースだった。
川島なお美さんはとてもお綺麗でその容姿に憧れたうえに、ご結婚されてからはご主人と支えあう姿に女性として惹かれていた。
北斗晶さんはバラエティ番組で見せる明るく豪快なメンタリティにパワーをもらえるし、妻として母としての愛情深さが滲み出ているのが大好きだ。
川島さんのご逝去は悲しいし、北斗さんの快復を祈らずにはいられない。
昨夜は、緊急ニュースで川島さんの訃報が入り、「数日前にTVでみたのに…」と信じられないままその気持ちをブログに綴り、寝仕度をしていた。
顔を洗って歯を磨きながら、なんとなく考え始めた。
自治体の乳ガン検診っていつだっけ……?調べなきゃなぁ
そういえば毎年の健康診断、腫瘍マーカー検査のオプションは夫だけつけて、私は別にいいやと思ってつけなかったけど、やっぱり来年からつけたほうがいいかなぁ…
はやく見つかるに越したことないもんなー
手遅れになってからじゃ遅いし…
とそこまで考えて、はたと気づいた。
私、いま長く生きたい前提で考えてるよ!?
これは私にとって大きな驚きだった。
長く生きたいに決まってるじゃん、と思われるだろうが、一時の私はそうではなかったのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
◇「長く生きたい」がゆらぐまでの経緯
大学入学前後から自律神経系の不調に苦しみ、最初は家族にも言い出せなくて耐えていたのだが、もう限界に達して通院を始め、投薬治療をうけるようになった。
ざっくりいうと私の病気は心身症。ストレスや脳の疲労がさまざまな体調不良を引き起こしていて、そしてその症状のつらさゆえに落ち込みなど鬱的な症状が二次的に出ている、というのが医師の説明だった。
そこから私の長い闘病生活が始まる。
実家から遠く離れた東京でひとり暮らしだったのもこたえたが、自分が選んだ道だからとひたすら踏ん張った。
途中病状が悪化して半年実家で療養したため、私は大学を一年留年している。
それでもごまかしごまかし生活してなんとか卒業した。卒業さないと一生後悔すると思ったから。
卒業したらよくなるかも、という本人と家族と医者の祈るような希望的観測はみごとに外れた。
就職したら悪化した。最終的には毎日の業務に体が堪えられなくなり、やむなく退職した。死ぬほど悔しかったし、悲しかった。
真っ当に生きてきたし、人並み以上に努力してきたつもりだし、やる気だってある。
なんで私が病気に苦しめられて人生狂わせられなきゃいけないのかと嘆きに嘆いた。
この頃から、「生きているのがつらい」と思うようになったのだ。小さい頃からたまに「なんで生きているんだろう」と漠然と疑問に思うような子供だったが、死にたいとは思わなかった。それがこの頃、具体的な願望になってしまったのだ。
働けない病気をかかえてこれからどう生きるんだという不安が強すぎたのか、発作症状も出るようになった。
発作を1度経験してしまうとそれに対する予期不安がおこり、それがまた症状を悪化させるという負のスパイラルに入る。
発作の恐怖、人生への失望、体の症状の苦痛が重なり、地獄の日々だった。毎日ベッドのうえで恐怖に怯えながら独り天井を眺めるばかり。出来ることならずっと眠っていたい。意識があるからつらいんだ。
こんな毎日を送るうちに、「これがあと何十年も続くなんて耐えられない。○○歳になっても治らなかったら死のう。あと○年の我慢だ。」と本気で考え、それを支えに日々をやりすごした。
ーーーーーーーーーーーーーーー
◇治らないままの再就職、結婚
その後、なんとか再就職できる程度までは快復したが、薬は手放せず、発作症状も続いていた。行動の制約が多い生活だ。
それでも、「あと○年で死ぬなら社会復帰しよう。人並みに働いてから死にたい。」という奇妙なモチベーションで必死に働いた。働いている間は少し絶望から逃れられた。
ところで、私には結婚願望があった。自分でも矛盾してると思うが、長く生きる気がないくせに結婚はしたかったのだ。
昔からの夢だということに加えて、多分、結婚による精神的な安定によって快復するかもと、かすかな希望を抱いてたんだと思う。
実は20代前半ほとんどをともに過ごした男性がいたのだけれど、病状が悪化する私を支えきれずに去った。そのショックは半端ではなく、もうあの頃のことは思い出したくもない。
そんな経緯があったので「私なんかと結婚する男性はいないんじゃないか」と怯えながらも、友人が誘ってくれる合コンに参加し、婚カツパーティーにも挑戦し、何人かとデートもしてみた。
残念ながらどの人も私の琴線に触れず、いわゆる「婚カツ疲れ」を起こしていた頃、いまの夫と再会した。
具体的な経緯はこちら↓
付き合って三週間で結婚を決めるまで① ② ③
あれよあれよという間に結婚が決まり、義両親に私の病気のことも包み隠さず話したが受け入れていただけた。
実家の両親は心底ほっとしていた。
何より、夫になる超本人が私の病気に理解を示してくれたことが嬉しかった。
心の病はともすれば甘えといわれがちである。
「ゆりは甘えてない。よく頑張ってる。俺はそれを知ってるし、人間なにかしら弱点はあるもんだ」
そう言われたとき、10年分の凝り固まった心の氷が溶けるように泣いた。
「○○歳までに治らなかったら死のうと思って生きてきた」と告白したら
「まぁとりあえず数年延長してみれば?」
とさらりと明るく返された。どんな熱い励ましより素直に「そうだね」と言えた。
ーーーーーーーーーーーーーー
◇結婚してその後
こちらの記事をご覧いただければと思う。
やはり、激務の夫と病気もちの妻の生活は、完璧に順風満帆とはいかない。
でも東京に「家族」がいてくれる、そして自分のことを受け入れてくれている、という安心感がある。
また結婚して数年間は、私が治療に専念できるよう専業主婦という選択肢をとらせてもらえた。
そのかいあって信頼できる主治医に出会えたし、ストレスもぐんと減った。
今も薬を飲みながらの生活だし、人より体調を崩しやすいし、できないことも多い。
それでも日常の生活を回せて、友人や夫との時間を朗らかに楽しめるくらいには快復してきた。最近はライターの仕事もさせていただくようになった。
一番悪かったときのことを考えれば奇跡だ。
そして昨夜、
長く生きたい前提で思考していた。
かつて設定したリミット「○○歳」は、実はもう過ぎている。
治ったかと聞かれれば、治っていない。
でも、いま死にたいとは思っていない。
30代、40代、50代、その後まで生きるつもりでいる。まだこの世に未練がある。できれば充実した幸せな人生を送りたいとまで思っている。
そんな自分に心底驚いた。
峠はきっと越えた。
ーーーーーーーーーーー
◇これから
揺り戻しが来ることもあるだろう。
また「死ねれば楽なのに」と思うかもしれない。
でもどうにかこうにか耐えしのげば、トンネルからふっと抜けられる日が来るよとそのときは自分に言い聞かせようと思う。
いまもし、
現状が辛くて辛くて生きていたくないと思っているかたがいたら
いま少しねばってみてください
こんな私でも「生きたい」と思うようになりました。
あなたにもいつかきっと、そんな自分に驚く日が来るはずですから。
その前日には北斗晶さんが乳ガンを患っていること、長い闘いを覚悟されていることをブログを発表されていた。
どちらも私にとってはショッキングなニュースだった。
川島なお美さんはとてもお綺麗でその容姿に憧れたうえに、ご結婚されてからはご主人と支えあう姿に女性として惹かれていた。
北斗晶さんはバラエティ番組で見せる明るく豪快なメンタリティにパワーをもらえるし、妻として母としての愛情深さが滲み出ているのが大好きだ。
川島さんのご逝去は悲しいし、北斗さんの快復を祈らずにはいられない。
昨夜は、緊急ニュースで川島さんの訃報が入り、「数日前にTVでみたのに…」と信じられないままその気持ちをブログに綴り、寝仕度をしていた。
顔を洗って歯を磨きながら、なんとなく考え始めた。
自治体の乳ガン検診っていつだっけ……?調べなきゃなぁ
そういえば毎年の健康診断、腫瘍マーカー検査のオプションは夫だけつけて、私は別にいいやと思ってつけなかったけど、やっぱり来年からつけたほうがいいかなぁ…
はやく見つかるに越したことないもんなー
手遅れになってからじゃ遅いし…
とそこまで考えて、はたと気づいた。
私、いま長く生きたい前提で考えてるよ!?
これは私にとって大きな驚きだった。
長く生きたいに決まってるじゃん、と思われるだろうが、一時の私はそうではなかったのだ。
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◇「長く生きたい」がゆらぐまでの経緯
大学入学前後から自律神経系の不調に苦しみ、最初は家族にも言い出せなくて耐えていたのだが、もう限界に達して通院を始め、投薬治療をうけるようになった。
ざっくりいうと私の病気は心身症。ストレスや脳の疲労がさまざまな体調不良を引き起こしていて、そしてその症状のつらさゆえに落ち込みなど鬱的な症状が二次的に出ている、というのが医師の説明だった。
そこから私の長い闘病生活が始まる。
実家から遠く離れた東京でひとり暮らしだったのもこたえたが、自分が選んだ道だからとひたすら踏ん張った。
途中病状が悪化して半年実家で療養したため、私は大学を一年留年している。
それでもごまかしごまかし生活してなんとか卒業した。卒業さないと一生後悔すると思ったから。
卒業したらよくなるかも、という本人と家族と医者の祈るような希望的観測はみごとに外れた。
就職したら悪化した。最終的には毎日の業務に体が堪えられなくなり、やむなく退職した。死ぬほど悔しかったし、悲しかった。
真っ当に生きてきたし、人並み以上に努力してきたつもりだし、やる気だってある。
なんで私が病気に苦しめられて人生狂わせられなきゃいけないのかと嘆きに嘆いた。
この頃から、「生きているのがつらい」と思うようになったのだ。小さい頃からたまに「なんで生きているんだろう」と漠然と疑問に思うような子供だったが、死にたいとは思わなかった。それがこの頃、具体的な願望になってしまったのだ。
働けない病気をかかえてこれからどう生きるんだという不安が強すぎたのか、発作症状も出るようになった。
発作を1度経験してしまうとそれに対する予期不安がおこり、それがまた症状を悪化させるという負のスパイラルに入る。
発作の恐怖、人生への失望、体の症状の苦痛が重なり、地獄の日々だった。毎日ベッドのうえで恐怖に怯えながら独り天井を眺めるばかり。出来ることならずっと眠っていたい。意識があるからつらいんだ。
こんな毎日を送るうちに、「これがあと何十年も続くなんて耐えられない。○○歳になっても治らなかったら死のう。あと○年の我慢だ。」と本気で考え、それを支えに日々をやりすごした。
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◇治らないままの再就職、結婚
その後、なんとか再就職できる程度までは快復したが、薬は手放せず、発作症状も続いていた。行動の制約が多い生活だ。
それでも、「あと○年で死ぬなら社会復帰しよう。人並みに働いてから死にたい。」という奇妙なモチベーションで必死に働いた。働いている間は少し絶望から逃れられた。
ところで、私には結婚願望があった。自分でも矛盾してると思うが、長く生きる気がないくせに結婚はしたかったのだ。
昔からの夢だということに加えて、多分、結婚による精神的な安定によって快復するかもと、かすかな希望を抱いてたんだと思う。
実は20代前半ほとんどをともに過ごした男性がいたのだけれど、病状が悪化する私を支えきれずに去った。そのショックは半端ではなく、もうあの頃のことは思い出したくもない。
そんな経緯があったので「私なんかと結婚する男性はいないんじゃないか」と怯えながらも、友人が誘ってくれる合コンに参加し、婚カツパーティーにも挑戦し、何人かとデートもしてみた。
残念ながらどの人も私の琴線に触れず、いわゆる「婚カツ疲れ」を起こしていた頃、いまの夫と再会した。
具体的な経緯はこちら↓
付き合って三週間で結婚を決めるまで① ② ③
あれよあれよという間に結婚が決まり、義両親に私の病気のことも包み隠さず話したが受け入れていただけた。
実家の両親は心底ほっとしていた。
何より、夫になる超本人が私の病気に理解を示してくれたことが嬉しかった。
心の病はともすれば甘えといわれがちである。
「ゆりは甘えてない。よく頑張ってる。俺はそれを知ってるし、人間なにかしら弱点はあるもんだ」
そう言われたとき、10年分の凝り固まった心の氷が溶けるように泣いた。
「○○歳までに治らなかったら死のうと思って生きてきた」と告白したら
「まぁとりあえず数年延長してみれば?」
とさらりと明るく返された。どんな熱い励ましより素直に「そうだね」と言えた。
ーーーーーーーーーーーーーー
◇結婚してその後
こちらの記事をご覧いただければと思う。
やはり、激務の夫と病気もちの妻の生活は、完璧に順風満帆とはいかない。
でも東京に「家族」がいてくれる、そして自分のことを受け入れてくれている、という安心感がある。
また結婚して数年間は、私が治療に専念できるよう専業主婦という選択肢をとらせてもらえた。
そのかいあって信頼できる主治医に出会えたし、ストレスもぐんと減った。
今も薬を飲みながらの生活だし、人より体調を崩しやすいし、できないことも多い。
それでも日常の生活を回せて、友人や夫との時間を朗らかに楽しめるくらいには快復してきた。最近はライターの仕事もさせていただくようになった。
一番悪かったときのことを考えれば奇跡だ。
そして昨夜、
長く生きたい前提で思考していた。
かつて設定したリミット「○○歳」は、実はもう過ぎている。
治ったかと聞かれれば、治っていない。
でも、いま死にたいとは思っていない。
30代、40代、50代、その後まで生きるつもりでいる。まだこの世に未練がある。できれば充実した幸せな人生を送りたいとまで思っている。
そんな自分に心底驚いた。
峠はきっと越えた。
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◇これから
揺り戻しが来ることもあるだろう。
また「死ねれば楽なのに」と思うかもしれない。
でもどうにかこうにか耐えしのげば、トンネルからふっと抜けられる日が来るよとそのときは自分に言い聞かせようと思う。
いまもし、
現状が辛くて辛くて生きていたくないと思っているかたがいたら
いま少しねばってみてください
こんな私でも「生きたい」と思うようになりました。
あなたにもいつかきっと、そんな自分に驚く日が来るはずですから。
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