久しぶりの更新になってしまいました。
大変遅ればせながら、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
    
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タイトルの通り、スコット・フィッツジェラルド著、村上春樹訳の小説『グレート・ギャツビー』で今年の泣き初めをした。
男のロマン、夢の儚さ、人の心のうつろいがなんとも心に切なく訴えかけてくる作品だった。そしてこの作品の大ファンだという村上春樹氏の翻訳が、このうえなく素晴らしい。

村上春樹作品が読めなかった私
村上氏といえばグレート・ギャツビー以前にもたくさん訳書を出している。その中でいちばん印象に残っているのが2003年の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』だ。それまで『ライ麦畑でつかまえて』の邦題で日本人に親しまれていたサリンジャーの小説を、キャッチャー・イン・ザ・ライのまま出した!なんじゃそりゃ!と物議を醸していた記憶がある。
当時大学の教養課程の学生だった私は、英文学者・斉藤兆史先生の「翻訳論」という講義をうけていた。その講義の中でも、村上氏のキャッチャー・イン・ザ・ライはたびたび登場した。なぜそれまでの邦題を使わなかったのか、どういう解釈や意図のもとそうしたのか。本文も随分引用された。

そんなに話題になって講義にも登場したにもかかわらず、私はキャッチャー・イン・ザ・ライを読んでいない。なぜかというと、作品自体にもあまり興味がなく、そして……ファンの方すみません、村上春樹氏の作品が苦手だったから。
「風の歌を聴け」で「?」となり。「羊をめぐる冒険」で「??」となり、心折れる。
その後ひとのすすめで「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読んではじめて「面白い、いける!」とにわかに盛り上がったものの、「1Q84」で挫折し、再び心折れた。
もう私の感性が足りないか読解力の不足だろうと、村上氏の文章を読むことはあきらめた。

きっかけは『映像の世紀』
そんな私が今回『グレート・ギャツビー』を読んだのは、NHKの映像の世紀という番組がきっかけだ。1900年代の世界をひたすら映像で追う番組で、複雑な近現代史がわかりやすく、そして印象強く頭に入ってくる。1995年に放送された番組のデジタル・リマスター版が今年のお正月に放送され、熱烈なファンの夫がすべて録画したので三ヶ日中ずっとみることになった……いいけど。
その番組の中でアメリカの1920〜30年代を描写するのに必ず登場するのが、スコット・フィッツジェラルドだ。彼の名前をあまりにも聞きすぎて、作品を読まずにはいられなくなり、それならグレート・ギャツビーからだろう、となった次第。

迷った挙句、村上氏の訳で読んでみた 
ここで問題にぶつかった。この作品も何人かの日本人によって訳されている。誰の訳で読んだものか……。最新は村上春樹さんだけど、私大丈夫かなぁ(とてもとても不安)、という迷いをTwitterにこぼしてみたところ、尊敬する書き手の方が「小説だめでも訳書は大丈夫ですよ!」と背中を押して下さった。よし、それなら!とポチり、久しぶりに村上春樹氏の文章と対峙した。

で、結果、泣き初めである。
村上氏の訳は素晴らしかった。実は、事前に青空文庫で他の訳者さんのバージョンもところどころ読んでみたのだが、村上氏の訳のほうが、原文の文体というかリズム感や、世界観をより忠実に再現している気がした。
(もっとも原文は鬼のように難しくて、ごくごく一部しか読みこなせなかったので、あくまでも私が感じた限りでは、の話だが。)
フィッツジェラルド独特の、複雑なんだけど流れるような文章、とでもいえばいいんだろうか、それを見事に日本語で再現している。

絶対にそれは並大抵の作業じゃない。
私が朗読をやっていたことは以前書いた。朗読をする人間にとって訳文は鬼門だ。
なぜかというと、たしかに外国語から日本語にはなっているのだけれど実感として意味が分かりにくい文章が存在するのがひとつ(本格的にわからないと、原文にあたってみるはめになる)。
そしてもう一つは(こっちのほうが朗読者にとっては残酷)、文章のリズムが崩されていることだ。原文には確かに存在する文体やリズムが、違う言語に訳されることによってどうしても崩れてしまう。もうこれはある程度仕方がない。ただ、聞き手にわかりやすく、なおかつ聞いて心地よい読みをするのは至難の業なのだ。

村上氏の情熱、精緻さ、そして感性
しかし、その「ある程度仕方がない」リズムの崩れを、村上氏は最小限に抑えたのではないかと思う。日本語としてもきちんと成立し、しっかりと意味の通る文章にしながら、もとのフィッツジェラルドの文の持つニュアンスやリズム感を再現しようだなんて、なんとまあ!神業……!

実際、村上氏は「訳者あとがき」で、これまでに邦訳されたグレート・ギャツビーはどうもフィッツジェラルドが書いた作品の世界観を再現しきれていないと感じていて、自分はその点に力を注いだと書いている。
そして、しっかりしていつつも流麗であるグレート・ギャツビーの文章の独特のリズム感を、なるべく崩さないようにした、とも。
村上先生、素人目線ですが、見事に達成されたのではないでしょうか。貴方の訳のおかげで私はグレート・ギャツビーの世界観を存分に味わい、泣きました。

また訳者あとがきには、村上氏のグレート・ギャツビーという作品への思い、フィッツジェラルドへの思い、翻訳作業への思いも綴られており、あとがきだけでもそこらへんの短編小説が軽く吹っ飛ぶような熱量を感じる。
おそらく村上氏にとって、思い入れのあるグレート・ギャツビーを少しでも理想通りに訳すことが、男のロマンなんだろう。あとがきに男のロマンを感じたのは初めてだ。
溢れんばかりの情熱と、精緻な作業を進める冷静さ、そして作品の空気を吸って吐き出すように世界観を再現する感性、そのすべてがぎゅっと詰まったあとがきだった。

そしてそれらは実際に『グレート・ギャツビー』本編の中でいかんなく発揮されている。
登場人物のイキイキとした会話、人柄をあらわすちょっとした描写、構造は複雑ながらも美しい音楽のような文章。随所に著者の才能と訳者の努力が光る。

3人の男のロマン
私の勝手な想像だが、この邦訳版『グレート・ギャツビー』には、3人の男のロマンがつまっている。
・一人目、ヒットをとばして食いつなぐための軽い短編ではなく、本格的長篇小説を書きたいという小説家としての情熱を作品にぶつけたフィッツジェラルド
・二人目、小説の中で哀しくも野心家で真っ直ぐなロマンチストとして生きた、ギャツビー
・三人目、愛してやまないその二人の男のロマンを日本の読者により忠実に届けたいと、心血を注いだ訳者、村上春樹


新年早々、素晴らしい作品に出会えて幸せだ。
2度、3度と読み返したい。

ときに村上春樹先生、『夜はやさし』を訳してはいただけませんでしょうか?