夕方、地元の友達から
「出た!朝の6時59分!2956gの女の子で、名前は○○ 帰ってきたら会おうね〜!」
とLINEのメッセージがきた。

「『出た!』ってww」と内心突っ込みつつ、
いっしょに届いた写真(彼女と産まれたばかりの姫)をみて、なんだかじんわり心が熱くなった。

1月末が予定日、と年末に聞いていたので、先週末辺りから実はソワソワしていたのだ。
そろそろかな、大丈夫かな、あの147センチの友人の体からもう一人出てくるって冷静に考えたらすごいな…なんて思いながら。

そんなふうに待ちに待っていた報告だったので、しみじみ嬉しかったし、ホッとした。

        ※

「生まれました」の報告には、単なるお知らせや幸せのお裾分け以上に“静かに見守ってくれている人達への優しさ”の意味もあると思う。

25歳くらいまでの私の周りには、同世代の出産経験者がほとんどいなかった。何も分かっていない私は、友達が出産予定日を過ぎたあたりになると「生まれた?」とサクッと聞いていた。
今思うと、当時の自分の無邪気さが恐ろしい。
そんなこと今じゃとてもじゃないけど聞けない。

周りに妊娠・出産経験者が増えてくると、少しずつ知識が増える。

私の周囲はまだまだ高齢出産の年齢ではない。
それでも、妊娠はしたものの安定期に入る前に悲しいことに流産してしまう人、切迫早産の危険で入院する人、無事に生まれても赤ちゃんが病気で何ヶ月も入院すること、難産で母体に負担がかかりすぎてお母さんが入院すること、どれも決して珍しくないんだと、この何年かでよく分かった。

「生まれました。母子ともに健康です。」
この言葉にはものすごい奇跡が詰まってると。


だから、そろそろ予定日過ぎたなと思っても、周りはひたすら静かに待つしかない。何も知らなかった頃みたいに「生まれた?」なんて口が裂けても聞けない。報告が来るまで聞かないのは大人の常識だ。

本人からの一報は、そんな周りのワクワクと心配と焦れったさを一気に解決してくれる。
出産でぐったりしてるだろうに知らせてくれることに、“優しさ”を感じるのだ。

LINEやメールで個別に報告するのは、産後の体ではごく親しい数人が限度なのかな?と思う。
その点Facebookは一気にお知らせできるから便利だ。
「Facebookが結婚・出産報告ツールになってて見る気がしない」という声をよく聞くし、たしかに知らない人の報告がタイムラインに流れてきても、正直なところ私もあまりピンとこない。
でも友人・知人であれば、「あ~あの子、妊娠したって言ってたな。元気に出産したんだよかった!」と眺めてる人も多いんじゃないかと思う。
そう思えば、タイムラインの出産報告もほっこり受け止められないだろうか?


都内ならとんで会いに行きたいくらい嬉しい。
次の帰省が楽しみ!