アラサーライター吉原由梨の 「ようやく大人 まだまだ女」

フリーライター/コラムニスト、吉原由梨のブログです。 Webサイトを中心に執筆しています。 都内の大学法学部卒業後、 ITメーカーOL→ 研究機関秘書職→ 専業主婦→ フリーライター兼主婦 日々感じること、ふとしたことからの気づきを綴っています。恋愛と結婚を含む男女のパートナーシップ、人間関係、心身の健康、家庭と仕事、グルメや読書の話など。美味しいもの、マッサージ、ふなっしー大好き。 Twitter:@yuriyoshihara こちらもお気軽に。

Twitter:@yuriyoshihara 

2015年12月

私がいま日本で1番好きな俳優、堺雅人さん。

彼のもはや代表作といっていい大ヒットドラマ、『半沢直樹』は、銀行を舞台にした、社会派人間ドラマだ。正義感あふれる銀行員役が記憶に新しい。
「倍返しだ!」……流行りましたねえ

もう一つ、その前後にシリーズ1と2が放送された『リーガルハイ』こちらは弁護士活動や法廷でのやりとりを舞台にした社会派……コメディ?
それまでの芸風をガラッと変えた、拝金主義者で自己中で自信家でときに退行する無敗弁護士役……という振り切ったコミカルな堺さんの演技が話題になった。

みなさん、どちらがお好きだろうか?
視聴率でいえば半沢直樹が圧勝。


でも
私は絶対に、リーガルハイ派だ。

もちろん半沢直樹も素晴らしい。普段組織の理不尽を味わっている人なら、あれを見てすっきりしたことも一度や二度ではないだろう。
敵役として出てくる上司の不正や責任転嫁、金融庁との対立、さまざまなしがらみを主人公が見事に痛快に乗り越えていく様子は、日曜日のお茶の間をスカッとさせた。上戸彩さんの妻役もよかった。
言ってみれば現代版『水戸黄門』ではなかろうか。家族で楽しめる「勧善懲悪」の世界。


でも、私はリーガルハイなのだ。その理由を今日は書きます。

■善悪、正義は多元的なものである
こちらは半沢直樹とは打って変わって、
「この世に正義などない。神でない我々人間に正義などわかるわけがない。
あるのは、立場によって変わる善悪と、立場によって変わる正義だけだ。」という哲学が繰り返し繰り返し、視聴者になげかけられる。あるときはユーモアで、あるときは世相に対する痛烈な批判で、またあるときは部下役の新垣結衣さんへのダメ出しとして。

弁護士を主人公にするドラマはどうしても「正義の実現のために、依頼人のために、利益度外視で全力をつくします」という綺麗な弁護士像が描かれがちだ。
このドラマはこれを根底からひっくり返した。
古美門研介は拝金主義で、勝つためなら手段を選ばない。それはある意味「依頼人のために全力をつくす」ことにつながるが、それは依頼人の主張が真実だからとか、そういうことではない。真実なんてどうでもいい、そもそも真実なんて分かるわけないんだ、という前提にたったうえで、あくまでも報酬のために勝利を貪欲に求める。

**********
日本新聞協会広告委員会が実施した2013年度「新聞広告クリエーティブコンテスト」で最優秀賞を受賞した作品をご存じだろうか?

「ボクのおとうさんは、桃太郎というやつに殺されました。」
小鬼のイラストとともに。

桃太郎は正義の味方として語り継がれているが、小鬼からすればおとうさんを殺したとんでもない鬼畜である。

誰かのしあわせや正義の裏には、誰かの不幸や犠牲がある。一つの物語でも立場が違えばこんなに捉え方が違う。

*********

リーガルハイで繰り返し伝えられているのも、これと同じことである。物事を一面からしか見ないと絶対的正義が存在するようにみえるが、多面的に見れば、それぞれの正義は異なっていて、完璧な善も、完璧な悪も存在しない。

だから、「この世のすべてをわかってもいない弁護士が、正義の実現のために働くなんて傲慢だ。依頼人の利益を考えるだけだ。」という仕事哲学に繋がる。
とても筋が通っている。


■鋭い風刺と「人間の欲の肯定」

そういった世界観をもとに、時事ネタをパロってがんがん斬っていく。子役、アイドル、大物政治家、芸能人の離婚、マンション建設反対運動、大物音楽プロデューサーのパクリ疑惑、etc.
これまでの「綺麗な弁護士ドラマ」では絶対に脚本に書かれなかったであろう毒がふんだんにもられ、古美門研介によって語られる。
でもその毒は、非常に鋭く世相をついている。そして人間の利己的な心や欲をもあぶりだす。
世相についての鋭い指摘は的確で納得がいくし、人間の欲の描写も、現実問題人間ってそんなもんだよなーと思わせられるリアリティがある。

でも、その「欲」を決してこのドラマは否定しない。むしろ伝わってくるのは「欲」に正直に生きろ、人間なんてそんなもんだ、という強烈な肯定。


■そんな世の中だけど、でもそれが良い。『この世はすべて、コメディだ!』
このドラマは、とにかく、綺麗事をかかない。いい話で終わるのかと思うと、必ずどんでん返しがある。
人間は欲深い、利己的な生き物である。そしてこの世に絶対的な善悪など存在しないのだから、世の中はカオスになる。醜い争いごとが山ほど起こる。そんな世の中だけど、まぁ捨てたもんじゃないよね。楽しくやってきましょー。

とでも言うような、現実を現実としてしっかり冷静に受け止めたうえで、それが人間社会の面白いとこでしょといわんばかりに決して暗くならず、コミカルに味付けしてしまう。
毎回ゲラゲラ笑える。

脚本家の古沢良太さん、制作スタッフのみなさん、そして役者のみなさん、実にあっぱれと言いたいドラマだ。

ご覧になってない方は、ぜひ見てみてほしい。
※実は私はこのドラマの中でハイライトともいえるシーン、最重要回のテーマについては触れていない。リーガルハイが面白おかしいだけのドラマではない、社会的意義のあるドラマだと必ず感じていただけると思う。



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どうも私には、勧善懲悪がなじまない。
みんなが「こっちが善!こっちが悪!」と声を揃えるのがどうも苦手だ。

見方によっちゃあ、逆かもしれないし、大衆が知らない込み入った事情があるのかもしれないじゃん、と思ってしまう。
うがってるんだろうか……。

価値観は多元的で、立場や時代が変われば善悪なんて一瞬で入れ替わる。 
これはNHKの新・映像の世紀をみてもつくづく思うことだ。昨日までの正義が今日から悪とされるなんて、これまで世界中でどれだけ起こってきたことか。

ドラマに話を戻すと、
つまりは善悪二元論を根底にする半沢直樹より、価値観の多様性を根底にするリーガルハイが、私の感覚にすっと馴染む。
人間もそう。決めつけるようないい方や極論しか言わない人は苦手。物事を多面的にとらえられる人が好きだ。 

振り返ると、多様性、多様性と言い続けた2015年だった。私にとって、キーになる概念だったんだと思う。
おそらく今年最後になるであろうエントリーで、この半沢直樹とリーガルハイについては書いておきたかった。


9ヶ月間、このブログを読んで下さってありがとうございます。アクセス一つ一つが励みです。
来年もどうぞよろしくお願いいたします!
良いお年を!


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明石家サンタが流れる聖夜、皆様いかがおすごしでしたしょうか。
ほんとはあれやこれや絡めて長々と書きたかったのですが、深夜書いてるのでサクッとサクッといきます。……なるべく。
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『聖おにいさん』という漫画をご存知だろうか?東京の立川で、休暇中のイエスとブッダがルームシェアするというブッ飛んだ設定の漫画だ。
イエスは言わずとしれたキリスト教におけるの神の子、ブッダは仏教の開祖。その二人の仲睦まじい共同生活の様子が面白おかしく描かれている。ギャグ漫画といっても差し支えないくらい、キリスト教と仏教の教義ネタを組み込んだギャグが散りばめまくられているが、ちっともどちらかを揶揄したり愚弄したりする空気はないし、本当にただただ面白く笑える。
でも、この漫画が何事もなく出版され、一般市民が手にとって爆笑してる国なんて、日本くらいじゃないかと思う。

知人のアメリカ人女性にこの漫画の話をすると、「あぁ、それは日本ならではね〜。アメリカでだったら問題になりそう。」と言っていた。
実際そうだろう。
クリスマスも初詣も楽しんでしまう、宗教へのこだわりが薄い日本だからこそ、問題にならないんだと思う。

私はクリスチャンホームに生まれた。両親は教会に通っていて、小さい頃は私も一緒に礼拝にいった。なので、お宮詣りも七五三もやってない。代わりに教会で「幼児洗礼」という儀式をうけた。
そして中学高校もキリスト教の学校だったので、
行事ごとにミサがあったし、宗教の授業もあった。だから私はキリスト教にはそこそこ詳しい。
ただ、私自身がクリスチャンかときかれると、そうでもない。どの宗教を信じているか絶対選べと言われればキリスト教だが、教会にも行ってないし、日常的に祈りを捧げる習慣もない。初詣にもいくし、おみくじもひくし、厄払いにもいく。お守りも持ち歩く。仏教の本も読む。無宗教といっても差し支えないだろう。

私がこういうふうになったのは、皮肉なことに育った環境が1番の要因だと思う。
我が家はプロテスタントだった。学校はカトリックだった。同じキリスト教でも、教義や戒律が微妙に異なる。マリア信仰があるか、偶像崇拝を認めるか、労働や財をなすことをよしとするか……そもそもカトリック教会に反発した宗教改革からはじまったのがプロテスタントなので、哲学が違う。
そんな2つの宗派どちらにも関わってみて、10代の私が感じたこと。
「アプローチが違うだけで、求めているものは同じなんじゃないか」

そもそも教義も戒律も、そのときの権力者にとって都合がいいように定められていることが多々ある。世界史を勉強した方ならご存知だろう。イギリス正教会がカトリック教会と袂を分かったのは、当時の王が離婚したいがためだった(カトリックでは離婚はタブーだ)。

でも、同じ神を信じ、一般の信者が祈ることは、今日も明日も食べるものがありますように、平和でありますように、死後の魂が救われますように、だ。

その思いは、高校で世界史や倫理を勉強してより強くなった。
仏教の思想はクリスチャンホームに生まれた私には新鮮だったが哲学として学ぶところが多いと思ったし、日本の歴史と強く結びついているだけに感覚的に理解しやすかった。
イスラム教は輪をかけて新鮮だった。完全に異文化だ。身近にイスラム教徒がいなかったし、遠い国の宗教という印象だったが、やはり哲学として興味深い。
そして勉強すればするほど思う。
「アプローチが違うだけで、求めているものは一緒なんじゃないか」

雑な考え方かも知れないが、結局、人智をこえた大いなる存在というものを人間は感じていて、それを探究したい、もしくはその大いなる存在にすがり祈ることによって、現世での平安や死後の魂の救いを得たい、どの宗教もそこに尽きるのではなかろうかと高校生なりに感じた。
もちろん、来世があるかとか、一神教か多神教かとか、宗教としての大きな違いはある。
でも信心の根本は同じな気がした。
人智をこえた大いなる存在の捉え方は、ちょうど手塚治虫さんの『火の鳥』の中で繰り返し描写されているイメージにも近い。大人になって初めて読んだとき、「これだ」と思った。

いまでもその考えは変わっていない。
宗教に、政治が結びつくからややこしい。政治や権力や民族の闘いに、大義名分として宗教がかかげられるからややこしい。
一部の過激な人々を除けば、真理を求め、魂の救済を求める素朴な一般市民の見ている先はきっと同じだ。方法論が違うだけだ。



平和ボケした日本人ならではの発想かもしれない。
聖☆おにいさんに、イスラム教の神アラーか、(アラーは描いてはいけないらしいので)預言者ムハンマドかが登場して、イエスとブッダと三人で仲良く立川でルームシェアしてほしい。
銭湯に行ったりTSUTAYAに行ったり、お互いの天使やら弟子やらを巻き込んでドタバタ劇を繰り広げてほしい。教義ネタをギャグにもりこんで大いに笑わせてほしい。
そしてそれが世界中で翻訳されるくらい、互いの
宗教や思想に寛容な世界であってほしい。
漫画の例はちょっと突拍子もないし、何千年の歴史がある宗教問題がそうあっさり解決するとは思わない。
でも、他の宗教を受容することは、自らの信仰を全うすることと何ら矛盾しない。自分が一神教を信じていて、隣の人が違う神を信じていても、自分にとっては自分の神が唯一神、隣人にとっては隣人の神が神。それで良いんじゃないのか。方法論が違うだけ。
この世に(あの世に?)もし神がいるとしたら、人類に争いを望んではいないだろう。不穏な空気に眉をひそめているはずだ。宗教は争いを希求するものではない。平和を希求するものだ。


クリスマスくらいは真剣に、宗教観と平和について考えてみました。
本当は映像の世紀と半沢直樹とリーガル・ハイも絡めたかったけど、とてつもなく長くなりそうだったのでこの辺で!

メリークリスマス!

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よく聞かれる。
「なんでライターに?」と。
そりゃ聞きたくもなるだろう。30代、出版にもWebにも関わったことはなく、全く違う職種からブランクを経ていきなりフリーの物書き。
わけがわからない。

質問される度、私は二つある動機のうち、現実的なほうの回答をかえす。
「文章を書くことは好きですし、結婚したこともあって、これから場所を問わず長く続けられる仕事がしたい。体力的な無理がきかないこともあって、フリーランスを選びました。」
これも本音だ。
30代になって、「自分は30代何がしたいのか」が全く描けてないことに気がついた。20代は盛りだくさんだった。病気をこじらせてほとんど谷、崖、ばかりだったと記憶しているけれど、そのなかでも自分の足で立つんだと必死にもがいて、その結果得たものもあったし、奇特な人とめぐりあえて結婚もした。
漫然と生きた感はない。
おそらく私は、40歳になったとき、30代を振り返る。そのとき「夫のことは支えたけど、自分名義では特になにもしなかったなぁ……」ではあまりにむなしい。主婦も立派な仕事だが、私はそれじゃ納得しないだろうと思った。じゃあ何をやろうかと模索していたときにアンテナにひっかかったのがライティングだった。
本格的にやるなら、どこかの編プロに弟子入りするのが一番に違いない。でも、体調面でフルタイムで勤めるのは難しい。コンスタントな出勤も難しい。遠回りだと分かっていてもフリーを選んだ。
そんな次第。

でも動機はそれだけじゃない。
むしろ、書いていくうちにもうひとつの方の理由が大きくなってきている。
それは「誰かの生きづらさを和らげたい」

なにをえらっそうに、と思われるのを覚悟でここに書いている。
8か月前まで三点リーダの使い方も知らなかった十把一絡げ素人ライターだ。日本語の表記のルールも全部書籍やネットで独学。現在進行中。記者ハンドブックは必須。身の程はわきまえているつもり。

それでも敢えて書く。
「誰かの生きづらさを和らげたい」
生きづらさを自分がさんざん感じてきたから。

アプローチはいろいろあると思う。

実用的なライフハック、仕事術などのhow to記事。これらは分かりやすく役に立つ。また政治や経済、社会について分かりやすい情報を伝えることは、生きやすさにつながる。
そこまで直接的でなくとも、たとえばめちゃくちゃ笑える記事を書いて日常の悩みから束の間離れる時間をつくることだってあてはまるし、ほっこりしたエッセイや、しっとりしたコラムで心を豊かにできるひとときを提供するのもそのひとつだ。
むしろ、実体験をもとに見解を述べたコラムやエッセイなどのほうが、筆者の切り口でものごとの新しい解釈を提示できるし、読者が「自分だったらどう思うかな」と考える余白があって、気づきを促す力は大きいと思う。自らを投影するひともいるかもしれない。

そう考えるとどんな記事でも私の目標は達成できるしゆくゆくはそんなマルチな書き手になりたいが、いまは特に2つの点に思いが集中している。

1つは、レール通り、型通りの人生(女性なら恋愛・結婚・出産)を歩まなきゃと生きづらく感じているひとに、「そうじゃなくてもいい。強迫観念から解放されよう。」というメッセージを発したい。ありふれた言葉を使えば、多様性という概念をもっともっと世の中に浸透させたい。(先日のアドベントカレンダーの記事でも書きました)
自分の人生を主体的に自由に生きていいんだ、と気づいてほしい。世の中はメディアが切り取るよりよほど混沌としていて、王道を行く人は実際にはごく一握りだ。性的マイノリティや、いわゆるこれまでの「ふつう」とはずれていて、自分は王道を歩めないと悩む人に、肩の力が抜けて心にすっと風が通るような感覚を得てほしい。本や哲学や様々な知見を紹介することで、新しい視点や気付きのきっかけを得てもらえたら嬉しい。

2つ目は、心身の不調に悩むひとに向けて。
このブログには、自分の内面や、病気で生きづらくて苦しかった体験もかなり赤裸々に書いている。
【メンタル】「生きたい」と思った自分に驚いた
思い出すのは、正直辛い。自慢できることでもない。
それでも書くのは、もしいま当時の私と同じような苦しみを抱えているひとがそれを読んでくれたとき、
「自分だけじゃないんだ」
「どん底から這い上がって行けたひと、いるんだ」
と少しでも救いを得てほしいから。
医者ではないから上から目線のアドバイスはできないし解決もできない。でも、同じ目線で苦しんだからこそ理解できる心情、苦しさ、現実的に解決しなければいけないことへの対処法など、共有できることがきっとあるはず。苦しむ当人や、周りの人たちのヒントに少しでもなればいい。
読んでくれたひとの「生きづらさ」が少しでも和らいでくれたら、こんなうれしいことはない。



このふたつに限らず、ほんの些細なことから大きなことまで、生きづらさは世の中に溢れている。仕事、家庭、人間関係、病気、お金……。
それに毎日ぶつかって、それでもどっこい、幸せや楽しさをみつけてなんとか生きていこうかねーと前を向いてる人がほとんどだろう。
あらゆる(まっとうな)ビジネスが最終的には「生きづらさの解消」につながると思うが、私は現時点ではライティングという手段で、微力でもその一端を担いたいと思っている。

2015年もあと10日、残りあとどのくらい更新できるか分からないので、現時点での思いをここに書きとどめておく。



追記)昨日の情熱大陸で、羽田圭介氏の「小説は誰かを救うことだってできる。」という言葉が紹介されていた。これまで、私が彼に惹かれるのは、小説そのものや、独特のキャラクター、ストイックさとユーモアのバランスだろうかと漠然と考えていたが、根底にある彼の思想に惹きつけられていたんだなとようやく分かった。
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結婚5年目、31歳。事情があってうちには子供がいない。夫婦ともそれを不幸なこととはとらえてなくて、「一生二人でも十分楽しい」と納得している。というか、付き合って結婚を決めるまでの二週間で、そこの価値観は擦り合わせている。どちらの実家の両親も、事情を解してか特にせっついてこない。

ただ、外からの善意の刺激は避けられない。病院、大学のOBOG会、買い物先、とにかくありとあるゆる場所で投げかけられる「お子さんは?」のせりふ。特に上の世代の方が多い。そういわれるたび、一方では「ほっとけよ」と内心毒づきながら、他方でなにか自分がものすごく悪いことでもしているのかという思いにかられる。割りきっているはずの心が揺れる。
いちいち私に言わないだけで、夫もいろんなところで言われてるんだろう。

相手が「傷つけてやろう」と悪意でいってるなら楽だ。でも善意だ。もしくは単なる世間話。当たり前のように、もしくはよかれと思ってにこやかに言われると、反論したり相手を憎んでやり過ごしたりもできず、もやもやするはめになる。
これまでは「まぁ、授かり物ですからそのうち……」と言っていたが、最近は二度と言われないように「うーん、うちはずっと二人かもしれないです」と言うようにしている。

     ****

先日、中学からの親友の結婚式に出席した。
素晴らしい時間だった。
この日のために大幅なダイエットに成功した友人は幸せオーラをふりまき、これまでで一番綺麗だった。私はバージンロードを歩く友人の姿にあっさり涙腺が崩壊し、そのあとは何回うるっとしたか覚えてない。昔から知ってるお母様は相変わらず穏やかで、ずっと涙ぐみながら娘を見守り、お父様と一緒に私たち友人の席にいらして「いつまでも娘をよろしくお願いします」とご挨拶してくださった。

披露宴は職場の方々が多かったので、新婦高校友人は私を含めて3人。小児循環器科の医師として働く独身の友人、第2子妊娠中の専業主婦の友人、私。
それぞれ日頃の生活は全然違えど、長年の友人だ、話に花が咲く。特に医師の友人の生活はすさまじく、強い使命感をもって仕事にあたる凛々しさが随所に感じられた。

いい時間だった。披露宴自体も素晴らしく、お料理、会場装花、盛り上がり具合、余興やスピーチのクオリティ、どれをとっても存分に上質な祝宴だったと思う。

……思いもよらない心の揺れが生じたのは終盤だった。
花束贈呈がおわり、両家を代表して新郎のお父様がスピーチなさった。
「……今日結婚したこの新しい夫婦に、多くのことは望みません。ただただふつうに家庭を築き、ふつうに子供を育ててほしい。自分の人生を振り返って、それがどんなに難しいことかがわかります。……」

“ふつうに子供を育ててほしい”

このくだりを聞いて、なんともいえない感情が私のなかを駆け巡った。
とっさに命を宿している隣の友人のお腹を見、毎日多くの子供の命を救う友人の顔を見た。

私に向けられた言葉ではないと百も承知だ。でも幸せな時間に心の鎧をすべてはずしてしまっていた私には、思いの外ずっしりきた。
私の子宮は、一生胎児の家となることはないのか、私は一生我が子を抱くことはないのか、そして夫と私のDNAを継ぐ我が子を夫に抱かせてあげられないのか。両親に、孫をみせられないのか。
“ふつうに”子供を産み育てる経験をしないまま歳をとったら、後悔するのだろうか。


新郎父を批判したいわけではない。「大層なことを成し遂げてほしいのではなく、身近な当たり前の幸せを大切にしてほしい」という趣旨のあたたかいスピーチだった。自慢の息子が結婚したら、次は孫をと願うのは自然な感情だと思う。
腹が立ったわけでもない。
単純に、私にはいろんな意味で響いたというだけ。

混乱した私の心のなかは、退場していく主役二人の笑顔でいくらか落ち着きを取り戻した。
1列席者の機微なんてどうでもいいのだ。
今日はこの二人の日だ。
ただただ、そういう「ふつう」を望むご家庭と縁を結んだ彼女が、順調に子宝に恵まれますようにとだけ心から願って、複雑な感情は忘れてしまおうと思う。

ご結婚、おめでとう。
19年来の友より。


追伸) 結婚してからが本番。
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「#読み終わった本リスト」参加者のみなさんのアドベントカレンダーに、ひょんなことから参加させていただくことになりました。
http://www.adventar.org/calendars/933 

今年読んで印象に残った本をお互い紹介しましょう、という企画です。
私の担当が本日、12月9日。
今年も実用書から小説、漫画までいろいろ読みましたが、いざ選ぶとなると迷いますね。甲乙つけがたいものが沢山。
でも印象に残ったものを選んでみたら、不思議と共通点がみえました。

**********
まず、最近読んで泣けたものを一冊。
きらきらひかる (新潮文庫)
江國 香織
新潮社
1994-05-30



クリハラさん(@kurit3)から譲っていただきました.

主人公の夫婦は一見どこにでもいる「ふつう」の2人ですが、実はそれぞれ「脛に傷持つ者同士」の結婚だったという設定。妻の笑子は情緒不安定でアル中、夫の睦月は女性を愛せずボーイフレンド持ち。お互い結婚を急き立てられる状況にあったため、事情を承知のうえで結婚します。当然二人は男女の仲ではないものの、互いを大切に思っていて、唯一の望みはいまのこの生活が変わらず続くこと。
でも二人の願いもむなしく、それぞれの事情はお互いの両親の知るところになり、睦月の恋人をも巻き込んだ荒波に襲われます。


とにかくこの夫婦、不器用です。相手の幸せを祈りながらの行為が裏目に出て、かえって傷つけたり、自分自身を追いつめたり。それがもどかしくもあり、愛おしくもあり……。
笑子の情緒不安定は欠点でありながらも、感受性の強さ、必死さ、まっすぐさと常に表裏一体で、特に後半、睦月の幸せのために痛々しいほど奔走する姿に泣きました。
ストーリーは最終的に予想外の着地をしますが、読後「ふつう」ってなに?と静かに、でも激しくこちらの心を揺さぶってきます。江國香織さん独特の、静かで、なんだか今にも泣きだしそうなんだけど、言葉から温かい質感が伝わってくる文体がそれを増幅させる。
形はいびつかもしれない、でも彼らの純粋さと愛情(男女のものではないにしろ)を前にしたら、従来からの「ふつう」に当てはまっていることにどれほどの価値があるんだろう。ーー切なくも温かい物語から、そんなことを感じさせてくれる一冊。





次は、来年、蒼井優さん主演で映画化されるというこちら。

『ここは退屈迎えに来て』も記憶に新しい山内マリコさんは、ジャスコ化(いまではファスト風土化というらしい)した地方都市を舞台にした作品を描くのが上手な作家さん。


物語は2本の柱でできています。
一方は、20代前半の男性二人。アメリカのドキュメンタリーに触発され、閉塞感と何者にもなれない自分への鬱憤をはらすかのように、夜の街でグラフィティもどきを描きなぐってまわるように。そしてこの二人と行動をともにする女性一人。彼女もやるべきことを見出だせず、男性に対しても尊厳を守れない。
他方は、タイトルにもある安曇春子。実家暮らしのニートから脱出したものの、パワハラセクハラなんでもありの小さな会社でこきつかわれ、27歳と当時に肩叩き。なんとなく付き合ってるような関係だったはずの男は音信不通。無限だと思っていた自分の若さがあっという間に消費されてしまったことに気づき「消えてしまいたい」と心から思う。
そして本当にいなくなる。



どちらのエピソードにも、ファスト風土化された地方都市(いわゆる田舎、というより郊外)独特の空気が充満していて、実際のそれを知っているからこそ読んでいるとつらくなりました。

ずっと地元に残って愛着がある者と、一度外に出た者の意識の乖離(都会で挫折して戻ったがゆえの地元へのひねくれた視線が実にリアル)、集合場所といえばショッピングモール、暇潰しのパチンコ、衝動をもて余した若者の惰性のセックス。
女はそこそこで結婚して出産するのが当たり前という空気。
全体を覆うのは息苦しいほどの閉塞感です。

私が何年も前に違和感を覚えた、そしてもうそこには戻らないと決めた、あの閉塞感。


2つのエピソードは意外なところで絡み、ラストはちょっとファンタジック。著者がフェミニスト寄りなのか、そんな色の強い結末です。リアリティーには少々欠ける印象もあるものの、閉塞感をぶちやぶるような爽快感とメッセージ性は十分。
女たちよ、能動的に生きろ!しけた現実に縛られるな!男によって価値を決められるのではなく、自分の価値は自分で決めろ!

著者からの強烈なメッセージ。




……東京にいると、移住ブームだったり地方が新たなビジネスの舞台として注目されたりと、地方都市の魅力や可能性がフィーチャーされているのを見聞きします。しかし、実際に地方の若者がどれだけその希望や未来を肌で感じているかというと、すごく微妙。デジタルディバイドなんて地域間にはほぼ存在しないにもかかわらず。もちろん積極的にIターンUターンする人、意識を高く持ってアグレッシブに生きる若者や、地元になじんで楽しくやっている人も多くいます。でも、その陰で希望を抱けず、そもそも抱こうとも思わず、狭い空のした閉塞感を抱きながら生きてる……そんな若者の割合が意外に高い。その鬱屈したエネルギーを生産的に昇華させてほしいーー私が感じたこの作品のサブメッセージはそれです。


今年から、私は女性向けWebマガジンで記事を書かせていただいていますが、無意識に東京やそれに準ずる都会の女性限定の記事を書いてはいないか?と自省するきっかけになりました。自分がかつて暮らしたような「都会でない」土地に住む女性の心にも届いてほしいなと。 



最後に少し毛色の違うものを。





今年、30代二回目の誕生日を迎えまして。
お肌の曲がり角なんてもう何回曲がったか分かりませんし、曲がったらそこは崖だった、というリアルホラー体験も済ませました。代謝は下がるし、肌のツヤもなんだかなぁ……。
女性はどうしても、「歳を重ねる」ことについてはマイナスイメージと結びつけやすいもので、 巷ではアンチエイジングを謳う商品が並び、美魔女ブームもなんだかんだ批判はありつつも続いています。
でも、私はむやみやたらに若さに拘泥したくはないんですね。ずっと女でいたいけれど、年相応でいい。
たしかにハタチの女の子と比べて肌のハリは比較にもならないし、おっぱいもたるむし、なんか顔にちょこちょこシワも出来てます。 
でも勝負するのはそこじゃないぞ、と。小娘にはわからない人生の機微、円熟味、深み、いろんなものがまた女性の輝きを増す要素になるはず。40歳になったときには、30の頃よりまた女としてパワーアップしたと思いたい。


そんな考え方にしっくりくる美容法がつまっている本です。歳をとることを前向きにとらえて、基本的なケアをきちんとして、アラは適度に隠しながら年々深みとまろみのある女性になりましょ、というスタンス。
著者の神崎さんのセミナーを取材したことがありますが、女性としての自己演出法も異性の心の掴み方も熟知しつつ、中身は誰よりも男前!という芯の通った女性です。そんな彼女らしい一冊。
本の帯にもあるように「年をとるのは怖くない!」
これ全国の女性に呼びかけたいです。 


***********

こうして振り返ってみると、「生き方」「心」に関係していて、古い価値観や強迫観念から解放されるのがテーマ、というのが共通点でしょうか。
これは、私がこの一年考えてきたこととたしかに一致していて、「こうするのが普通」「かくあるべき」といった(特に女性の)生き方に対する正体不明の強迫観念から解放されたい、という思いが読書にも表れたのかなと感じます。
もちろんモラルや最低限の常識は必要。でも状況が許すなら、本来の自分がのびのびと生きられるように生きればいい。そして自分がそうするなら、他者のそれも尊重する。多様性を受け入れくだらない比較はしない。マウンティング根性なんてごみ箱に捨ててしまえ。そんなことを日々考えた一年だったと思います。


読書を切り口に今年を振り返るっていうのもいいですね。
来年の自分がどんな本を読み、どんなことを感じるのか。解放と模索から一歩前進しているのかーー書店へと足を運ぶ自分の姿を、期待と不安をないまぜにしながら思い浮かべています。




 
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