アラサーライター吉原由梨の 「ようやく大人 まだまだ女」

フリーライター/コラムニスト、吉原由梨のブログです。 Webサイトを中心に執筆しています。 都内の大学法学部卒業後、 ITメーカーOL→ 研究機関秘書職→ 専業主婦→ フリーライター兼主婦 日々感じること、ふとしたことからの気づきを綴っています。恋愛と結婚を含む男女のパートナーシップ、人間関係、心身の健康、家庭と仕事、グルメや読書の話など。美味しいもの、マッサージ、ふなっしー大好き。 Twitter:@yuriyoshihara こちらもお気軽に。

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2016年01月

たん−りょく【胆力】=事にあたって、恐れたり、尻ごみしたりしない精神力。ものに動じない気力。きもったま。
goo辞書より

私にはこの胆力が致命的に足りてない。

数年前、体調不良に悩んで駆け込んだ漢方外来で処方された薬は「チクジョウンタントウ」
ウンタンは「温胆」と書き、つまりは胆を温める薬。
白髪の医師に、「肝っ玉を強くする薬です」と解説された。

お薬サイトなどでこの薬を調べると、「風邪が長引いて体力が低下し、ウンチャラカンチャラ〜」と説明があるのだが、東洋医学の考え方は独特で症状にアタックするというよりその裏にある根本的な体質や弱った部分にアプローチするので、「長引く風邪」の薬が同時に「肝っ玉を強くする」薬でもありうる。
漢方は昔から馴染みがあるのと、一時期ハマって本を読んでたこともあったので、ほんのちょっとだけ詳しい。他にも、乗り物酔いの薬が下痢の薬と一緒だったり、頭痛薬と胃薬が一緒だったりする。

話が脇道にそれたが、胆力。
心配性で、ピンチに弱くて、緊張しいで、ショックを受けると体調が悪くなるくらい引きずる。
つまりは肝がすわっていない。
常に最悪の事態を想定して動くので、裏を返せば危機管理能力に長けているといわれるけれど、この性格はとにかく疲れる。
高校時代、放送部で朗読に没頭して司会の楽しさにガッツリはまった私が就職先としてテレビ局を選ばなかったのは、容姿がそのレベルにとても達していないという自覚に加えて、この性格のせいだ。
あんな毎日が度胸試しみたいな仕事、私には絶対出来ない。


若いお嬢さんなら、そんな繊細で弱々しい気質も可愛らしい。でも、もうそんな年じゃない。大人として生きていくには「肝っ玉」が必要だ。
もっとこう、おおらかに、何事にも動じず、どーんと構えていたい。

いま肝っ玉を鍛えるべく、いろいろ挑戦中である。

体幹を鍛える

瞑想する

認知の歪みを意識的に自覚して、発想の転換をしてみる etc.

スーパーの鮮魚売り場で「アン肝食べれば肝っ玉に効くかな……」と結構本気で検討している風な主婦がいたら、それは私だ。
(東洋医学では、弱っている部分と同じ部位を食べれば効くという古い一説もあるらしく、胃が悪かった頃はセンマイ=胃袋を意識して食べていたことも。真偽の程は不明。)



変化を恐れず、しなやかに生きたい。







もうすぐ1月が終わる。「1月は行く」ってそのとおりですね。

今月はとてもとてもバタバタしております。
物理的にも、精神的にも。忙しかった。ヘロヘロです。

■立ち位置に直面する

とくにこのところ、自分のレベルの低さを痛感しています。
最近、Webメディアの世界でかなりキャリアを積まれ、確実に実力をお持ちな方(と私がいうのもおこがまし過ぎるくらい……)に文章を見ていただく機会に恵まれて、私としては決して手抜きではないつもりの文章を提出しました。

数日後、丁寧な総論的なコメントと、各論的なピンポイントの朱が入った原稿を返していただいた時、うなりました。

「私、スタートライン手前だこれ……」

もちろんその指摘の中には、マナトン(媒体によるマナー・トーン)的なものも若干含まれましたが、でもその僅かなもの以外は「どこに書くにしたってそらそうだよね」と納得の行くものばかり。
なにが「決して手抜きではない」だ、ちゃんちゃらおかしいわ、と自分に失笑しました。

しっかり指摘していただいて「成長のチャンス!」と嬉しい反面、その修正に変に悩み過ぎたのか、力み過ぎたのかして、いま「私の文章って、どんなだっけ?」状態に言葉が流れるように出てこなくなったんです。出てきても、リズムが悪い。このブログも眉間にシワ寄せながら書いてます。
絞り切った雑巾みたいに、心と脳みそが乾いてる。

まるでセンター試験の一週間前に現代文の問題がサッパリ読めなくなった高校生のときのよう……。
   
誤解の無いように付け加えますが、決して先方の指摘が厳しすぎたとかそういうことでは全くありません。極めて良識的で、的を得た指摘でした。お忙しい中時間を割いてくださり、感謝しかありません。その後起こったことは、私側の問題です。

■大きな勘違いに気づくのはショックだけど、意義深い

なんだかんだ言って、ライティングを始めて10ヶ月の間に、0から1くらいにはなったんじゃないかと思ってました。
仕事の記事のPVも悪くない、ブログのアクセス数も増えてきた、はてなブログはこの前初めてホットエントリ入りした……まだまだ駆け出しながらも、レベル0からレベル1くらいにはなったかなぁなんて漠然と考えていました。

でも違ったんです。まだマイナスでした。
0ですらない、マイナス。

正直がっくし来ました。能力の低さを目の当たりにするのは、いくつになってもやっぱり辛いもんです。
頭も心も絞り切った雑巾みたいになったのは、この「つくづく自分ダメだなぁ」の影響が大きいんだと思います


でも、このままレベル1だと勘違いして進むよりは、マイナスだと気づけたことは確実に糧だし、マイナスを埋めていく作業はしっかりした足場を
築くことに繋がるはず。
砂浜の上には、城どころか多分、小屋すら建たない。

気づく機会をくださった方に感謝するとともに、マイナスな私をチアアップし続けてくださってる方々にも感謝を。

■充電重視の期間と、2年目の展望

そんなこんなで「考え過ぎてわけわからなくなったら一回離れろ」の経験則のとおり、今はなるべく書くことに関して考える時間を減らしています。
カラッカラの雑巾がいい感じに水分を含んで、またリズムよく言葉が湧いてくるまで。五感をつかって潤いの充電を。


ライター2年目は、マイナスを埋めていく作業から始まりそうです。地味ですね。
でもありていに言えば「苦しいときは上り坂。」
苦しい時がないなんて、よほどの天才か、向上心ゼロかのどちらかですからね。
どっちでもない私は、ジタバタともがくことにします。

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不倫スキャンダルはもういい。
盛り上がりすぎだ。

週刊誌が絶妙なタイミングで続報を出す。ワイドショーがそれを取り上げる。ツイッターはまたしても、叩き大喜利合戦で埋まる。

確かに不倫はよくない。倫理に反するから不倫。人の倫(みち)にあらず、で不倫。傷つく人もいる。
当事者が悪くないとかそんなことは決して言えない。擁護するつもりはない。
でも、それにしたって騒ぎすぎだろう。


●スキャンダルを好き放題批判してる人たちに問いたい。
倫理をおかしたことは一度もないの?人を傷つけたことは全くないの?
胸を張って「無い」と言える人がどれほどいるんだろう。
法律の世界で言えばクリーン・ハンズの原則(悪いことをしている者に他人を訴える権利は無い)、イエス・キリストの言葉を借りれば「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」だ(その時代、姦通罪を犯した女は、石打ちの刑とされていた)。

犯罪でもなければ自分と直接の関わりのない他人の行為を、大仰に批判できるほど、みな品行方正なのか。


社会的制裁はもう十分だろう。あとは当事者間で解決すればいい問題だ。


●マスコミの報道がくだらないと嘆く人が多い。
気持ちはおおいにわかる。もっと取り上げるべきことはあるだろうと私も思う。第四の権力としての使命を全うしてほしい。(正確にいうと、マスメディアか)
でも現実問題、民放はビジネスだ。視聴率から算出される広告料で利益を上げている。視聴率がとれないことには経営が成り立たない。

そして忘れがちなのが、「視聴率がとれる=人々がみてくれている」ということだ。本当に皆が、スキャンダルなどくだらない、見る価値無しと思えば、視聴率は下がる。そうすればスキャンダルを取り扱う頻度も時間も減るだろう。
見たがる人がいるから、流れる。マスコミを「マスゴミ」にしてしまう一端を視聴者も担っていることを、忘れてはいけない。
私たちはもっと、賢くならなきゃいけない。

     ーーーーー
スキャンダラスな話題を隠れ蓑に、重要な政治的決定が進められているのでは、と危ぶむ皆さん(私もその一人)。
こうなったら国会中継を録画して見ましょう。それが1番確実かと。

「大きくなったらパパと結婚するの!」
円満な家庭の象徴のようなこのセリフを、私は一度も言ったことがありません。
思ったこともありません。
むしろ物心ついてから結婚するまでの約20年間、
「父親とは違うタイプの人と結婚しよう。」と心に決めていました。モラハラの連鎖をぶった切るために。

モラハラ夫である父のもとで育つ

私の父は、モラハラ夫でした。日常的な肉体的暴力は無いものの、激しい男尊女卑、母へのキツい物言いはあたりまえ。さらに一旦怒りのスイッチが入ったときの言葉の暴力は凄まじく、子供の目の前で手を上げることもありました。
私は小さい頃から感受性が強く、周りの大人の発する空気に敏感な子供だったため、いつもすぐに状況を察してしまい、母の様子を心配し、父の機嫌をうかがい、緊張しながら空気を取り持とうと明るく振る舞った記憶があります。

父は、どうしようもない人格破綻者だったわけではありません。 
仕事には人一倍情熱を傾け、子供には愛情を注いでくれました。
普段は超のつく倹約家でしたが教育にはお金を惜しまない人で、習い事は沢山させてもらったし、中学から受験して私立に通いました。バレエの舞台やミュージカル公演、アイススケートのショーなど、文化的な場所に連れて行ってくれた写真もたくさん残っています。大学受験のときには、第二志望の私立大にも入学金をいれてもらい、本命の国立の入試は「前日が雪で欠航になったらいけないから」と東京に前々日入り。4泊5日の旅でした。
良い思い出も、感謝している面もたくさんあります。

でも、夫としての父は、どうしても好きになれない。家の中で、誰かが我慢し、誰かが緊張して過ごすような家庭はまっぴらだ。

■夫婦間のモラハラは、子の恋愛観・結婚観に影響を与えるという説

大学生になって「夫婦間のモラハラを見て育った娘は、モラハラ夫を選んでしまう」という説を初めて知った時は恐怖で固まりました。「母親の『自分さえ我慢すれば』という考え方を、娘もまたしてしまう。」と。
また同様に、「モラハラを見て育った息子は、モラハラ夫になりやすい。」

モラハラの連鎖……それについて思い当たる節があったのです。
母の父、父の父、つまり私の二人の祖父は、両親の昔話を聞く限りでは、モラハラ夫でした。古い時代はどこの家庭もたいてい父親の立場が強いものですが、おそらくその範囲をこえた肉体的・精神的暴力があったようです。
……見事に、私の父も母もこの連鎖に巻き込まれてるじゃないか。メソッド通りじゃないか。

恐ろしい事実に気づいてしまい、自分はどうなるんだと憂いたのを、はっきりと覚えています。

そして、モラハラの連鎖について思い当たったことがもう一つ。
ある日、初めて父が、子供たちの前で母を激しく罵倒し、手を上げたとき。直後に母は私たち姉弟を連れて出かけて、話して聞かせました。「今日のことはね、びっくりしたと思うけど、お父さんが一方的に悪いんじゃないの。夫婦は長く暮らしていると喧嘩することもあって、そういうのを子供たちが(年齢的に)そろそろ知れたのは、良いことじゃないかと思うのよ。だから大丈夫。」と。
今にして思えば、そのときの母の心の中には、「まだ幼い子供たちの心に傷を作りたくない」という思いの他に、「モラハラの連鎖を断ち切りたい」という思いがあったように感じます。
だから、「これはモラハラ(当時はそんな言葉使いませんでしたが)じゃなくて、夫婦喧嘩なんだよ」と言い聞かせたんだと。

母には、自分がモラハラの連鎖に巻き込まれているという自覚がありました。
後々、聞いた話です。

■私の代で完全にぶった切るべく、慎重に相手を選ぶ。

母の願いでもあるモラハラ連鎖の断ち切り。
私の代で完全にぶった切ってやると、心に決めました。
私は見事に母の気質を受け継ぎ、実家では「自分が我慢して平和なら。」と思う娘に育ちました。
その自覚があるからこそ、自分が選んで作れる新しい家庭は、そこに属するメンバー全員が人格を尊重され、考えを自由に口に出来て、誰の顔色もうかがわずにリラックスして生きられる、そんな空間にしようと誓ったのです。
そしてそのためには、私のことを、アクセサリーでもなく、女中でもなく、性欲のはけ口でもなく、自尊心を保つための自分より劣った存在でもなく、人格をもった人間としてその人格と尊厳を認めてくれる人を伴侶にしようと、固く固く決心しました。

具体的に、どういう点に注意を払ったかを挙げておきます。

・彼の両親(とくに父親)をじっくり観察する
モラハラを見て育っていなければ、ひとつ安心です。

・実力以上の虚栄心をもっていないか
そういう男性は得てして社会で自意識ほどには認められず、その悔しさや憤りを家庭に持ち込みます。

・自信満々に自分の価値観ばかりを語らないか
家庭では絶対専制君主として君臨します。自分=ルールです。家臣の意見や価値観などどうでもよく、逆らえば罰します。

・必要以上のダメ出しをしないか
恋人にやたら細かいダメ出しをする男性は、モラハラ夫予備軍。「だから君はダメなんだ」なんて言い出したら、さっさと逃げ出すのが得策です。

・過剰な束縛をしないか
恋人に「他の男と話すな」「どこにいるか全て報告しろ」「友達と会うより自分を優先しろ」などと過剰な束縛をする男性は、恋人を所有物と捉えているので、対等な関係は築けません。
また、恋人から自分以外の交友関係をどんどん奪い、最終的に恋人が自分にしか頼れないように仕向けます。

・「女の子は何も分からないくらいが可愛い」と思っていないか
恋人を人格のある対等な人間と見ていません。愛玩動物扱いです。結婚後、妻が意見や口ごたえをしようものなら「どうせ何も分からないだろう。俺の言うとおりにしてればいいんだ」と言い出します。

・愛情が条件付きではないか
「可愛いから好き」「若いから好き」「尽くしてくれるから好き」条件付き愛情は危険です。恋人そのものでなく、その人から得られるメリットを愛してるから。
年を取って、見た目が崩れたら?病気や不慮の事故で、妻がそれまでほどの働きを見せられなくなったら?
きっと彼は妻に無関心になり、「足手まとい」扱いし、外に女を作ります。

・やたらと人を見下さないか
友人や同僚、周囲の人を何かにつけて見下す男性。彼らの根本思想は「自分以外はバカ。」その思想は結婚後の妻への目線に直結します。

・キレると手がつけられなくならないか
怒ることは人間誰でもありますが、問題は怒り方。人が変わったように暴れたり、人に当たり散らしたり、物を壊したりして、冷静な話し合いが通じないタイプの男性は、自分をコントロールできていません。その光景がそのまま家庭で再現される可能性大です。



前回の記事に書いた、取り憑かれたようなギラギラ婚活がむなしくなったのは、私の望む家庭像と、ギラギラ婚活との間に整合性が見出せなくなったのも一因です。
履歴書に書けるような条件、条件であさましく相手を選んで、果たしてお互いに「人間としての尊厳を認める」関係が築けるのか……?私の出した答えは否でした。

婚活からの離脱を経て、
上記の注意点と、内面の相性ーー価値観がすりあわせられるか、互いへの尊敬の念と愛情はゆるぎないか、一緒にいて自己肯定感が高まるか、のびのび本音がいえるかーーを慎重に吟味しながら、ありふれた恋愛してをして結婚しました。
結婚したとき夫と約束したことは、「本音で話すこと。」「何事も我慢しないこと。」
お互いに、モラハラの加害者にも被害者にもならないための約束です。


■夫婦間にモラハラの入り込む隙間をつくらない 

私が結婚して数年後、妹も結婚が決まりました。そのとき母は電話の向こうで、「うちの娘達は、お父さんあんな感じなのに、本当にやさしい旦那さんを見つけてくるねえ。よかったわ。」と笑っていました。娘としては切ない笑いです。


結婚5年目、今のところ我が家にはモラハラの影は見当たりません。
でもこれから40年、50年連れ添うなかで(連れ添えれば)、少しずつ関係性が変質してしまうことだって、ありえます。
良い変質ならウェルカム。むしろ柔軟で素晴らしい。
でも、モラハラに少しでも繋がりそうな兆候を嗅ぎ取ったら、芽になる前に引っこ抜くと決めています。

つい先日、夫の発言で初めて少し「えっ?」と思うことがあったので、納得行くまでとことん本音で話し合いました。そこで飲み込んではダメなのです。「私が我慢すれば……。」のモラハラ引き寄せマインドが育ってしまう。
あくまでも穏やかに、でも本音で話し合う。主張するべきことは主張する。
それができるはずの相手を選んだんだから。自信を持つことも、大切なモラハラ除けです。

■最後に

モラハラ家庭に育ってしまい恋愛や結婚で悩んでいる人がいたら、「大丈夫だよ」と言いたい。「自分は人格を愛されるに値する人間だ」と信じて(もちろんそのための研鑽は必要)、注意深く相手を選べば、親と同じことにはなりません。客観的に見てくれる友達を大切にする、そして交際相手が「変だ」と思ったら、情にひきずられず即逃げる。

「モラハラの連鎖は断ち切れる」ということを、人生をもって証明する所存です。




久しぶりの更新になってしまいました。
大変遅ればせながら、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
    
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タイトルの通り、スコット・フィッツジェラルド著、村上春樹訳の小説『グレート・ギャツビー』で今年の泣き初めをした。
男のロマン、夢の儚さ、人の心のうつろいがなんとも心に切なく訴えかけてくる作品だった。そしてこの作品の大ファンだという村上春樹氏の翻訳が、このうえなく素晴らしい。

村上春樹作品が読めなかった私
村上氏といえばグレート・ギャツビー以前にもたくさん訳書を出している。その中でいちばん印象に残っているのが2003年の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』だ。それまで『ライ麦畑でつかまえて』の邦題で日本人に親しまれていたサリンジャーの小説を、キャッチャー・イン・ザ・ライのまま出した!なんじゃそりゃ!と物議を醸していた記憶がある。
当時大学の教養課程の学生だった私は、英文学者・斉藤兆史先生の「翻訳論」という講義をうけていた。その講義の中でも、村上氏のキャッチャー・イン・ザ・ライはたびたび登場した。なぜそれまでの邦題を使わなかったのか、どういう解釈や意図のもとそうしたのか。本文も随分引用された。

そんなに話題になって講義にも登場したにもかかわらず、私はキャッチャー・イン・ザ・ライを読んでいない。なぜかというと、作品自体にもあまり興味がなく、そして……ファンの方すみません、村上春樹氏の作品が苦手だったから。
「風の歌を聴け」で「?」となり。「羊をめぐる冒険」で「??」となり、心折れる。
その後ひとのすすめで「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読んではじめて「面白い、いける!」とにわかに盛り上がったものの、「1Q84」で挫折し、再び心折れた。
もう私の感性が足りないか読解力の不足だろうと、村上氏の文章を読むことはあきらめた。

きっかけは『映像の世紀』
そんな私が今回『グレート・ギャツビー』を読んだのは、NHKの映像の世紀という番組がきっかけだ。1900年代の世界をひたすら映像で追う番組で、複雑な近現代史がわかりやすく、そして印象強く頭に入ってくる。1995年に放送された番組のデジタル・リマスター版が今年のお正月に放送され、熱烈なファンの夫がすべて録画したので三ヶ日中ずっとみることになった……いいけど。
その番組の中でアメリカの1920〜30年代を描写するのに必ず登場するのが、スコット・フィッツジェラルドだ。彼の名前をあまりにも聞きすぎて、作品を読まずにはいられなくなり、それならグレート・ギャツビーからだろう、となった次第。

迷った挙句、村上氏の訳で読んでみた 
ここで問題にぶつかった。この作品も何人かの日本人によって訳されている。誰の訳で読んだものか……。最新は村上春樹さんだけど、私大丈夫かなぁ(とてもとても不安)、という迷いをTwitterにこぼしてみたところ、尊敬する書き手の方が「小説だめでも訳書は大丈夫ですよ!」と背中を押して下さった。よし、それなら!とポチり、久しぶりに村上春樹氏の文章と対峙した。

で、結果、泣き初めである。
村上氏の訳は素晴らしかった。実は、事前に青空文庫で他の訳者さんのバージョンもところどころ読んでみたのだが、村上氏の訳のほうが、原文の文体というかリズム感や、世界観をより忠実に再現している気がした。
(もっとも原文は鬼のように難しくて、ごくごく一部しか読みこなせなかったので、あくまでも私が感じた限りでは、の話だが。)
フィッツジェラルド独特の、複雑なんだけど流れるような文章、とでもいえばいいんだろうか、それを見事に日本語で再現している。

絶対にそれは並大抵の作業じゃない。
私が朗読をやっていたことは以前書いた。朗読をする人間にとって訳文は鬼門だ。
なぜかというと、たしかに外国語から日本語にはなっているのだけれど実感として意味が分かりにくい文章が存在するのがひとつ(本格的にわからないと、原文にあたってみるはめになる)。
そしてもう一つは(こっちのほうが朗読者にとっては残酷)、文章のリズムが崩されていることだ。原文には確かに存在する文体やリズムが、違う言語に訳されることによってどうしても崩れてしまう。もうこれはある程度仕方がない。ただ、聞き手にわかりやすく、なおかつ聞いて心地よい読みをするのは至難の業なのだ。

村上氏の情熱、精緻さ、そして感性
しかし、その「ある程度仕方がない」リズムの崩れを、村上氏は最小限に抑えたのではないかと思う。日本語としてもきちんと成立し、しっかりと意味の通る文章にしながら、もとのフィッツジェラルドの文の持つニュアンスやリズム感を再現しようだなんて、なんとまあ!神業……!

実際、村上氏は「訳者あとがき」で、これまでに邦訳されたグレート・ギャツビーはどうもフィッツジェラルドが書いた作品の世界観を再現しきれていないと感じていて、自分はその点に力を注いだと書いている。
そして、しっかりしていつつも流麗であるグレート・ギャツビーの文章の独特のリズム感を、なるべく崩さないようにした、とも。
村上先生、素人目線ですが、見事に達成されたのではないでしょうか。貴方の訳のおかげで私はグレート・ギャツビーの世界観を存分に味わい、泣きました。

また訳者あとがきには、村上氏のグレート・ギャツビーという作品への思い、フィッツジェラルドへの思い、翻訳作業への思いも綴られており、あとがきだけでもそこらへんの短編小説が軽く吹っ飛ぶような熱量を感じる。
おそらく村上氏にとって、思い入れのあるグレート・ギャツビーを少しでも理想通りに訳すことが、男のロマンなんだろう。あとがきに男のロマンを感じたのは初めてだ。
溢れんばかりの情熱と、精緻な作業を進める冷静さ、そして作品の空気を吸って吐き出すように世界観を再現する感性、そのすべてがぎゅっと詰まったあとがきだった。

そしてそれらは実際に『グレート・ギャツビー』本編の中でいかんなく発揮されている。
登場人物のイキイキとした会話、人柄をあらわすちょっとした描写、構造は複雑ながらも美しい音楽のような文章。随所に著者の才能と訳者の努力が光る。

3人の男のロマン
私の勝手な想像だが、この邦訳版『グレート・ギャツビー』には、3人の男のロマンがつまっている。
・一人目、ヒットをとばして食いつなぐための軽い短編ではなく、本格的長篇小説を書きたいという小説家としての情熱を作品にぶつけたフィッツジェラルド
・二人目、小説の中で哀しくも野心家で真っ直ぐなロマンチストとして生きた、ギャツビー
・三人目、愛してやまないその二人の男のロマンを日本の読者により忠実に届けたいと、心血を注いだ訳者、村上春樹


新年早々、素晴らしい作品に出会えて幸せだ。
2度、3度と読み返したい。

ときに村上春樹先生、『夜はやさし』を訳してはいただけませんでしょうか?




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