アラサーライター吉原由梨の 「ようやく大人 まだまだ女」

フリーライター/コラムニスト、吉原由梨のブログです。 Webサイトを中心に執筆しています。 都内の大学法学部卒業後、 ITメーカーOL→ 研究機関秘書職→ 専業主婦→ フリーライター兼主婦 日々感じること、ふとしたことからの気づきを綴っています。恋愛と結婚を含む男女のパートナーシップ、人間関係、心身の健康、家庭と仕事、グルメや読書の話など。美味しいもの、マッサージ、ふなっしー大好き。 Twitter:@yuriyoshihara こちらもお気軽に。

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久しぶりの更新になってしまいました。
大変遅ればせながら、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
    
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タイトルの通り、スコット・フィッツジェラルド著、村上春樹訳の小説『グレート・ギャツビー』で今年の泣き初めをした。
男のロマン、夢の儚さ、人の心のうつろいがなんとも心に切なく訴えかけてくる作品だった。そしてこの作品の大ファンだという村上春樹氏の翻訳が、このうえなく素晴らしい。

村上春樹作品が読めなかった私
村上氏といえばグレート・ギャツビー以前にもたくさん訳書を出している。その中でいちばん印象に残っているのが2003年の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』だ。それまで『ライ麦畑でつかまえて』の邦題で日本人に親しまれていたサリンジャーの小説を、キャッチャー・イン・ザ・ライのまま出した!なんじゃそりゃ!と物議を醸していた記憶がある。
当時大学の教養課程の学生だった私は、英文学者・斉藤兆史先生の「翻訳論」という講義をうけていた。その講義の中でも、村上氏のキャッチャー・イン・ザ・ライはたびたび登場した。なぜそれまでの邦題を使わなかったのか、どういう解釈や意図のもとそうしたのか。本文も随分引用された。

そんなに話題になって講義にも登場したにもかかわらず、私はキャッチャー・イン・ザ・ライを読んでいない。なぜかというと、作品自体にもあまり興味がなく、そして……ファンの方すみません、村上春樹氏の作品が苦手だったから。
「風の歌を聴け」で「?」となり。「羊をめぐる冒険」で「??」となり、心折れる。
その後ひとのすすめで「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読んではじめて「面白い、いける!」とにわかに盛り上がったものの、「1Q84」で挫折し、再び心折れた。
もう私の感性が足りないか読解力の不足だろうと、村上氏の文章を読むことはあきらめた。

きっかけは『映像の世紀』
そんな私が今回『グレート・ギャツビー』を読んだのは、NHKの映像の世紀という番組がきっかけだ。1900年代の世界をひたすら映像で追う番組で、複雑な近現代史がわかりやすく、そして印象強く頭に入ってくる。1995年に放送された番組のデジタル・リマスター版が今年のお正月に放送され、熱烈なファンの夫がすべて録画したので三ヶ日中ずっとみることになった……いいけど。
その番組の中でアメリカの1920〜30年代を描写するのに必ず登場するのが、スコット・フィッツジェラルドだ。彼の名前をあまりにも聞きすぎて、作品を読まずにはいられなくなり、それならグレート・ギャツビーからだろう、となった次第。

迷った挙句、村上氏の訳で読んでみた 
ここで問題にぶつかった。この作品も何人かの日本人によって訳されている。誰の訳で読んだものか……。最新は村上春樹さんだけど、私大丈夫かなぁ(とてもとても不安)、という迷いをTwitterにこぼしてみたところ、尊敬する書き手の方が「小説だめでも訳書は大丈夫ですよ!」と背中を押して下さった。よし、それなら!とポチり、久しぶりに村上春樹氏の文章と対峙した。

で、結果、泣き初めである。
村上氏の訳は素晴らしかった。実は、事前に青空文庫で他の訳者さんのバージョンもところどころ読んでみたのだが、村上氏の訳のほうが、原文の文体というかリズム感や、世界観をより忠実に再現している気がした。
(もっとも原文は鬼のように難しくて、ごくごく一部しか読みこなせなかったので、あくまでも私が感じた限りでは、の話だが。)
フィッツジェラルド独特の、複雑なんだけど流れるような文章、とでもいえばいいんだろうか、それを見事に日本語で再現している。

絶対にそれは並大抵の作業じゃない。
私が朗読をやっていたことは以前書いた。朗読をする人間にとって訳文は鬼門だ。
なぜかというと、たしかに外国語から日本語にはなっているのだけれど実感として意味が分かりにくい文章が存在するのがひとつ(本格的にわからないと、原文にあたってみるはめになる)。
そしてもう一つは(こっちのほうが朗読者にとっては残酷)、文章のリズムが崩されていることだ。原文には確かに存在する文体やリズムが、違う言語に訳されることによってどうしても崩れてしまう。もうこれはある程度仕方がない。ただ、聞き手にわかりやすく、なおかつ聞いて心地よい読みをするのは至難の業なのだ。

村上氏の情熱、精緻さ、そして感性
しかし、その「ある程度仕方がない」リズムの崩れを、村上氏は最小限に抑えたのではないかと思う。日本語としてもきちんと成立し、しっかりと意味の通る文章にしながら、もとのフィッツジェラルドの文の持つニュアンスやリズム感を再現しようだなんて、なんとまあ!神業……!

実際、村上氏は「訳者あとがき」で、これまでに邦訳されたグレート・ギャツビーはどうもフィッツジェラルドが書いた作品の世界観を再現しきれていないと感じていて、自分はその点に力を注いだと書いている。
そして、しっかりしていつつも流麗であるグレート・ギャツビーの文章の独特のリズム感を、なるべく崩さないようにした、とも。
村上先生、素人目線ですが、見事に達成されたのではないでしょうか。貴方の訳のおかげで私はグレート・ギャツビーの世界観を存分に味わい、泣きました。

また訳者あとがきには、村上氏のグレート・ギャツビーという作品への思い、フィッツジェラルドへの思い、翻訳作業への思いも綴られており、あとがきだけでもそこらへんの短編小説が軽く吹っ飛ぶような熱量を感じる。
おそらく村上氏にとって、思い入れのあるグレート・ギャツビーを少しでも理想通りに訳すことが、男のロマンなんだろう。あとがきに男のロマンを感じたのは初めてだ。
溢れんばかりの情熱と、精緻な作業を進める冷静さ、そして作品の空気を吸って吐き出すように世界観を再現する感性、そのすべてがぎゅっと詰まったあとがきだった。

そしてそれらは実際に『グレート・ギャツビー』本編の中でいかんなく発揮されている。
登場人物のイキイキとした会話、人柄をあらわすちょっとした描写、構造は複雑ながらも美しい音楽のような文章。随所に著者の才能と訳者の努力が光る。

3人の男のロマン
私の勝手な想像だが、この邦訳版『グレート・ギャツビー』には、3人の男のロマンがつまっている。
・一人目、ヒットをとばして食いつなぐための軽い短編ではなく、本格的長篇小説を書きたいという小説家としての情熱を作品にぶつけたフィッツジェラルド
・二人目、小説の中で哀しくも野心家で真っ直ぐなロマンチストとして生きた、ギャツビー
・三人目、愛してやまないその二人の男のロマンを日本の読者により忠実に届けたいと、心血を注いだ訳者、村上春樹


新年早々、素晴らしい作品に出会えて幸せだ。
2度、3度と読み返したい。

ときに村上春樹先生、『夜はやさし』を訳してはいただけませんでしょうか?




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私がいま日本で1番好きな俳優、堺雅人さん。

彼のもはや代表作といっていい大ヒットドラマ、『半沢直樹』は、銀行を舞台にした、社会派人間ドラマだ。正義感あふれる銀行員役が記憶に新しい。
「倍返しだ!」……流行りましたねえ

もう一つ、その前後にシリーズ1と2が放送された『リーガルハイ』こちらは弁護士活動や法廷でのやりとりを舞台にした社会派……コメディ?
それまでの芸風をガラッと変えた、拝金主義者で自己中で自信家でときに退行する無敗弁護士役……という振り切ったコミカルな堺さんの演技が話題になった。

みなさん、どちらがお好きだろうか?
視聴率でいえば半沢直樹が圧勝。


でも
私は絶対に、リーガルハイ派だ。

もちろん半沢直樹も素晴らしい。普段組織の理不尽を味わっている人なら、あれを見てすっきりしたことも一度や二度ではないだろう。
敵役として出てくる上司の不正や責任転嫁、金融庁との対立、さまざまなしがらみを主人公が見事に痛快に乗り越えていく様子は、日曜日のお茶の間をスカッとさせた。上戸彩さんの妻役もよかった。
言ってみれば現代版『水戸黄門』ではなかろうか。家族で楽しめる「勧善懲悪」の世界。


でも、私はリーガルハイなのだ。その理由を今日は書きます。

■善悪、正義は多元的なものである
こちらは半沢直樹とは打って変わって、
「この世に正義などない。神でない我々人間に正義などわかるわけがない。
あるのは、立場によって変わる善悪と、立場によって変わる正義だけだ。」という哲学が繰り返し繰り返し、視聴者になげかけられる。あるときはユーモアで、あるときは世相に対する痛烈な批判で、またあるときは部下役の新垣結衣さんへのダメ出しとして。

弁護士を主人公にするドラマはどうしても「正義の実現のために、依頼人のために、利益度外視で全力をつくします」という綺麗な弁護士像が描かれがちだ。
このドラマはこれを根底からひっくり返した。
古美門研介は拝金主義で、勝つためなら手段を選ばない。それはある意味「依頼人のために全力をつくす」ことにつながるが、それは依頼人の主張が真実だからとか、そういうことではない。真実なんてどうでもいい、そもそも真実なんて分かるわけないんだ、という前提にたったうえで、あくまでも報酬のために勝利を貪欲に求める。

**********
日本新聞協会広告委員会が実施した2013年度「新聞広告クリエーティブコンテスト」で最優秀賞を受賞した作品をご存じだろうか?

「ボクのおとうさんは、桃太郎というやつに殺されました。」
小鬼のイラストとともに。

桃太郎は正義の味方として語り継がれているが、小鬼からすればおとうさんを殺したとんでもない鬼畜である。

誰かのしあわせや正義の裏には、誰かの不幸や犠牲がある。一つの物語でも立場が違えばこんなに捉え方が違う。

*********

リーガルハイで繰り返し伝えられているのも、これと同じことである。物事を一面からしか見ないと絶対的正義が存在するようにみえるが、多面的に見れば、それぞれの正義は異なっていて、完璧な善も、完璧な悪も存在しない。

だから、「この世のすべてをわかってもいない弁護士が、正義の実現のために働くなんて傲慢だ。依頼人の利益を考えるだけだ。」という仕事哲学に繋がる。
とても筋が通っている。


■鋭い風刺と「人間の欲の肯定」

そういった世界観をもとに、時事ネタをパロってがんがん斬っていく。子役、アイドル、大物政治家、芸能人の離婚、マンション建設反対運動、大物音楽プロデューサーのパクリ疑惑、etc.
これまでの「綺麗な弁護士ドラマ」では絶対に脚本に書かれなかったであろう毒がふんだんにもられ、古美門研介によって語られる。
でもその毒は、非常に鋭く世相をついている。そして人間の利己的な心や欲をもあぶりだす。
世相についての鋭い指摘は的確で納得がいくし、人間の欲の描写も、現実問題人間ってそんなもんだよなーと思わせられるリアリティがある。

でも、その「欲」を決してこのドラマは否定しない。むしろ伝わってくるのは「欲」に正直に生きろ、人間なんてそんなもんだ、という強烈な肯定。


■そんな世の中だけど、でもそれが良い。『この世はすべて、コメディだ!』
このドラマは、とにかく、綺麗事をかかない。いい話で終わるのかと思うと、必ずどんでん返しがある。
人間は欲深い、利己的な生き物である。そしてこの世に絶対的な善悪など存在しないのだから、世の中はカオスになる。醜い争いごとが山ほど起こる。そんな世の中だけど、まぁ捨てたもんじゃないよね。楽しくやってきましょー。

とでも言うような、現実を現実としてしっかり冷静に受け止めたうえで、それが人間社会の面白いとこでしょといわんばかりに決して暗くならず、コミカルに味付けしてしまう。
毎回ゲラゲラ笑える。

脚本家の古沢良太さん、制作スタッフのみなさん、そして役者のみなさん、実にあっぱれと言いたいドラマだ。

ご覧になってない方は、ぜひ見てみてほしい。
※実は私はこのドラマの中でハイライトともいえるシーン、最重要回のテーマについては触れていない。リーガルハイが面白おかしいだけのドラマではない、社会的意義のあるドラマだと必ず感じていただけると思う。



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どうも私には、勧善懲悪がなじまない。
みんなが「こっちが善!こっちが悪!」と声を揃えるのがどうも苦手だ。

見方によっちゃあ、逆かもしれないし、大衆が知らない込み入った事情があるのかもしれないじゃん、と思ってしまう。
うがってるんだろうか……。

価値観は多元的で、立場や時代が変われば善悪なんて一瞬で入れ替わる。 
これはNHKの新・映像の世紀をみてもつくづく思うことだ。昨日までの正義が今日から悪とされるなんて、これまで世界中でどれだけ起こってきたことか。

ドラマに話を戻すと、
つまりは善悪二元論を根底にする半沢直樹より、価値観の多様性を根底にするリーガルハイが、私の感覚にすっと馴染む。
人間もそう。決めつけるようないい方や極論しか言わない人は苦手。物事を多面的にとらえられる人が好きだ。 

振り返ると、多様性、多様性と言い続けた2015年だった。私にとって、キーになる概念だったんだと思う。
おそらく今年最後になるであろうエントリーで、この半沢直樹とリーガルハイについては書いておきたかった。


9ヶ月間、このブログを読んで下さってありがとうございます。アクセス一つ一つが励みです。
来年もどうぞよろしくお願いいたします!
良いお年を!


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明石家サンタが流れる聖夜、皆様いかがおすごしでしたしょうか。
ほんとはあれやこれや絡めて長々と書きたかったのですが、深夜書いてるのでサクッとサクッといきます。……なるべく。
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『聖おにいさん』という漫画をご存知だろうか?東京の立川で、休暇中のイエスとブッダがルームシェアするというブッ飛んだ設定の漫画だ。
イエスは言わずとしれたキリスト教におけるの神の子、ブッダは仏教の開祖。その二人の仲睦まじい共同生活の様子が面白おかしく描かれている。ギャグ漫画といっても差し支えないくらい、キリスト教と仏教の教義ネタを組み込んだギャグが散りばめまくられているが、ちっともどちらかを揶揄したり愚弄したりする空気はないし、本当にただただ面白く笑える。
でも、この漫画が何事もなく出版され、一般市民が手にとって爆笑してる国なんて、日本くらいじゃないかと思う。

知人のアメリカ人女性にこの漫画の話をすると、「あぁ、それは日本ならではね〜。アメリカでだったら問題になりそう。」と言っていた。
実際そうだろう。
クリスマスも初詣も楽しんでしまう、宗教へのこだわりが薄い日本だからこそ、問題にならないんだと思う。

私はクリスチャンホームに生まれた。両親は教会に通っていて、小さい頃は私も一緒に礼拝にいった。なので、お宮詣りも七五三もやってない。代わりに教会で「幼児洗礼」という儀式をうけた。
そして中学高校もキリスト教の学校だったので、
行事ごとにミサがあったし、宗教の授業もあった。だから私はキリスト教にはそこそこ詳しい。
ただ、私自身がクリスチャンかときかれると、そうでもない。どの宗教を信じているか絶対選べと言われればキリスト教だが、教会にも行ってないし、日常的に祈りを捧げる習慣もない。初詣にもいくし、おみくじもひくし、厄払いにもいく。お守りも持ち歩く。仏教の本も読む。無宗教といっても差し支えないだろう。

私がこういうふうになったのは、皮肉なことに育った環境が1番の要因だと思う。
我が家はプロテスタントだった。学校はカトリックだった。同じキリスト教でも、教義や戒律が微妙に異なる。マリア信仰があるか、偶像崇拝を認めるか、労働や財をなすことをよしとするか……そもそもカトリック教会に反発した宗教改革からはじまったのがプロテスタントなので、哲学が違う。
そんな2つの宗派どちらにも関わってみて、10代の私が感じたこと。
「アプローチが違うだけで、求めているものは同じなんじゃないか」

そもそも教義も戒律も、そのときの権力者にとって都合がいいように定められていることが多々ある。世界史を勉強した方ならご存知だろう。イギリス正教会がカトリック教会と袂を分かったのは、当時の王が離婚したいがためだった(カトリックでは離婚はタブーだ)。

でも、同じ神を信じ、一般の信者が祈ることは、今日も明日も食べるものがありますように、平和でありますように、死後の魂が救われますように、だ。

その思いは、高校で世界史や倫理を勉強してより強くなった。
仏教の思想はクリスチャンホームに生まれた私には新鮮だったが哲学として学ぶところが多いと思ったし、日本の歴史と強く結びついているだけに感覚的に理解しやすかった。
イスラム教は輪をかけて新鮮だった。完全に異文化だ。身近にイスラム教徒がいなかったし、遠い国の宗教という印象だったが、やはり哲学として興味深い。
そして勉強すればするほど思う。
「アプローチが違うだけで、求めているものは一緒なんじゃないか」

雑な考え方かも知れないが、結局、人智をこえた大いなる存在というものを人間は感じていて、それを探究したい、もしくはその大いなる存在にすがり祈ることによって、現世での平安や死後の魂の救いを得たい、どの宗教もそこに尽きるのではなかろうかと高校生なりに感じた。
もちろん、来世があるかとか、一神教か多神教かとか、宗教としての大きな違いはある。
でも信心の根本は同じな気がした。
人智をこえた大いなる存在の捉え方は、ちょうど手塚治虫さんの『火の鳥』の中で繰り返し描写されているイメージにも近い。大人になって初めて読んだとき、「これだ」と思った。

いまでもその考えは変わっていない。
宗教に、政治が結びつくからややこしい。政治や権力や民族の闘いに、大義名分として宗教がかかげられるからややこしい。
一部の過激な人々を除けば、真理を求め、魂の救済を求める素朴な一般市民の見ている先はきっと同じだ。方法論が違うだけだ。



平和ボケした日本人ならではの発想かもしれない。
聖☆おにいさんに、イスラム教の神アラーか、(アラーは描いてはいけないらしいので)預言者ムハンマドかが登場して、イエスとブッダと三人で仲良く立川でルームシェアしてほしい。
銭湯に行ったりTSUTAYAに行ったり、お互いの天使やら弟子やらを巻き込んでドタバタ劇を繰り広げてほしい。教義ネタをギャグにもりこんで大いに笑わせてほしい。
そしてそれが世界中で翻訳されるくらい、互いの
宗教や思想に寛容な世界であってほしい。
漫画の例はちょっと突拍子もないし、何千年の歴史がある宗教問題がそうあっさり解決するとは思わない。
でも、他の宗教を受容することは、自らの信仰を全うすることと何ら矛盾しない。自分が一神教を信じていて、隣の人が違う神を信じていても、自分にとっては自分の神が唯一神、隣人にとっては隣人の神が神。それで良いんじゃないのか。方法論が違うだけ。
この世に(あの世に?)もし神がいるとしたら、人類に争いを望んではいないだろう。不穏な空気に眉をひそめているはずだ。宗教は争いを希求するものではない。平和を希求するものだ。


クリスマスくらいは真剣に、宗教観と平和について考えてみました。
本当は映像の世紀と半沢直樹とリーガル・ハイも絡めたかったけど、とてつもなく長くなりそうだったのでこの辺で!

メリークリスマス!

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「#読み終わった本リスト」参加者のみなさんのアドベントカレンダーに、ひょんなことから参加させていただくことになりました。
http://www.adventar.org/calendars/933 

今年読んで印象に残った本をお互い紹介しましょう、という企画です。
私の担当が本日、12月9日。
今年も実用書から小説、漫画までいろいろ読みましたが、いざ選ぶとなると迷いますね。甲乙つけがたいものが沢山。
でも印象に残ったものを選んでみたら、不思議と共通点がみえました。

**********
まず、最近読んで泣けたものを一冊。
きらきらひかる (新潮文庫)
江國 香織
新潮社
1994-05-30



クリハラさん(@kurit3)から譲っていただきました.

主人公の夫婦は一見どこにでもいる「ふつう」の2人ですが、実はそれぞれ「脛に傷持つ者同士」の結婚だったという設定。妻の笑子は情緒不安定でアル中、夫の睦月は女性を愛せずボーイフレンド持ち。お互い結婚を急き立てられる状況にあったため、事情を承知のうえで結婚します。当然二人は男女の仲ではないものの、互いを大切に思っていて、唯一の望みはいまのこの生活が変わらず続くこと。
でも二人の願いもむなしく、それぞれの事情はお互いの両親の知るところになり、睦月の恋人をも巻き込んだ荒波に襲われます。


とにかくこの夫婦、不器用です。相手の幸せを祈りながらの行為が裏目に出て、かえって傷つけたり、自分自身を追いつめたり。それがもどかしくもあり、愛おしくもあり……。
笑子の情緒不安定は欠点でありながらも、感受性の強さ、必死さ、まっすぐさと常に表裏一体で、特に後半、睦月の幸せのために痛々しいほど奔走する姿に泣きました。
ストーリーは最終的に予想外の着地をしますが、読後「ふつう」ってなに?と静かに、でも激しくこちらの心を揺さぶってきます。江國香織さん独特の、静かで、なんだか今にも泣きだしそうなんだけど、言葉から温かい質感が伝わってくる文体がそれを増幅させる。
形はいびつかもしれない、でも彼らの純粋さと愛情(男女のものではないにしろ)を前にしたら、従来からの「ふつう」に当てはまっていることにどれほどの価値があるんだろう。ーー切なくも温かい物語から、そんなことを感じさせてくれる一冊。





次は、来年、蒼井優さん主演で映画化されるというこちら。

『ここは退屈迎えに来て』も記憶に新しい山内マリコさんは、ジャスコ化(いまではファスト風土化というらしい)した地方都市を舞台にした作品を描くのが上手な作家さん。


物語は2本の柱でできています。
一方は、20代前半の男性二人。アメリカのドキュメンタリーに触発され、閉塞感と何者にもなれない自分への鬱憤をはらすかのように、夜の街でグラフィティもどきを描きなぐってまわるように。そしてこの二人と行動をともにする女性一人。彼女もやるべきことを見出だせず、男性に対しても尊厳を守れない。
他方は、タイトルにもある安曇春子。実家暮らしのニートから脱出したものの、パワハラセクハラなんでもありの小さな会社でこきつかわれ、27歳と当時に肩叩き。なんとなく付き合ってるような関係だったはずの男は音信不通。無限だと思っていた自分の若さがあっという間に消費されてしまったことに気づき「消えてしまいたい」と心から思う。
そして本当にいなくなる。



どちらのエピソードにも、ファスト風土化された地方都市(いわゆる田舎、というより郊外)独特の空気が充満していて、実際のそれを知っているからこそ読んでいるとつらくなりました。

ずっと地元に残って愛着がある者と、一度外に出た者の意識の乖離(都会で挫折して戻ったがゆえの地元へのひねくれた視線が実にリアル)、集合場所といえばショッピングモール、暇潰しのパチンコ、衝動をもて余した若者の惰性のセックス。
女はそこそこで結婚して出産するのが当たり前という空気。
全体を覆うのは息苦しいほどの閉塞感です。

私が何年も前に違和感を覚えた、そしてもうそこには戻らないと決めた、あの閉塞感。


2つのエピソードは意外なところで絡み、ラストはちょっとファンタジック。著者がフェミニスト寄りなのか、そんな色の強い結末です。リアリティーには少々欠ける印象もあるものの、閉塞感をぶちやぶるような爽快感とメッセージ性は十分。
女たちよ、能動的に生きろ!しけた現実に縛られるな!男によって価値を決められるのではなく、自分の価値は自分で決めろ!

著者からの強烈なメッセージ。




……東京にいると、移住ブームだったり地方が新たなビジネスの舞台として注目されたりと、地方都市の魅力や可能性がフィーチャーされているのを見聞きします。しかし、実際に地方の若者がどれだけその希望や未来を肌で感じているかというと、すごく微妙。デジタルディバイドなんて地域間にはほぼ存在しないにもかかわらず。もちろん積極的にIターンUターンする人、意識を高く持ってアグレッシブに生きる若者や、地元になじんで楽しくやっている人も多くいます。でも、その陰で希望を抱けず、そもそも抱こうとも思わず、狭い空のした閉塞感を抱きながら生きてる……そんな若者の割合が意外に高い。その鬱屈したエネルギーを生産的に昇華させてほしいーー私が感じたこの作品のサブメッセージはそれです。


今年から、私は女性向けWebマガジンで記事を書かせていただいていますが、無意識に東京やそれに準ずる都会の女性限定の記事を書いてはいないか?と自省するきっかけになりました。自分がかつて暮らしたような「都会でない」土地に住む女性の心にも届いてほしいなと。 



最後に少し毛色の違うものを。





今年、30代二回目の誕生日を迎えまして。
お肌の曲がり角なんてもう何回曲がったか分かりませんし、曲がったらそこは崖だった、というリアルホラー体験も済ませました。代謝は下がるし、肌のツヤもなんだかなぁ……。
女性はどうしても、「歳を重ねる」ことについてはマイナスイメージと結びつけやすいもので、 巷ではアンチエイジングを謳う商品が並び、美魔女ブームもなんだかんだ批判はありつつも続いています。
でも、私はむやみやたらに若さに拘泥したくはないんですね。ずっと女でいたいけれど、年相応でいい。
たしかにハタチの女の子と比べて肌のハリは比較にもならないし、おっぱいもたるむし、なんか顔にちょこちょこシワも出来てます。 
でも勝負するのはそこじゃないぞ、と。小娘にはわからない人生の機微、円熟味、深み、いろんなものがまた女性の輝きを増す要素になるはず。40歳になったときには、30の頃よりまた女としてパワーアップしたと思いたい。


そんな考え方にしっくりくる美容法がつまっている本です。歳をとることを前向きにとらえて、基本的なケアをきちんとして、アラは適度に隠しながら年々深みとまろみのある女性になりましょ、というスタンス。
著者の神崎さんのセミナーを取材したことがありますが、女性としての自己演出法も異性の心の掴み方も熟知しつつ、中身は誰よりも男前!という芯の通った女性です。そんな彼女らしい一冊。
本の帯にもあるように「年をとるのは怖くない!」
これ全国の女性に呼びかけたいです。 


***********

こうして振り返ってみると、「生き方」「心」に関係していて、古い価値観や強迫観念から解放されるのがテーマ、というのが共通点でしょうか。
これは、私がこの一年考えてきたこととたしかに一致していて、「こうするのが普通」「かくあるべき」といった(特に女性の)生き方に対する正体不明の強迫観念から解放されたい、という思いが読書にも表れたのかなと感じます。
もちろんモラルや最低限の常識は必要。でも状況が許すなら、本来の自分がのびのびと生きられるように生きればいい。そして自分がそうするなら、他者のそれも尊重する。多様性を受け入れくだらない比較はしない。マウンティング根性なんてごみ箱に捨ててしまえ。そんなことを日々考えた一年だったと思います。


読書を切り口に今年を振り返るっていうのもいいですね。
来年の自分がどんな本を読み、どんなことを感じるのか。解放と模索から一歩前進しているのかーー書店へと足を運ぶ自分の姿を、期待と不安をないまぜにしながら思い浮かべています。




 
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私は新卒で入社した企業を一年で辞めた。

原因はパワハラでもモラハラでもなく、外資系IT関連企業のスピード感とスケール感と業務量に、新人女子社員が体力的・気力的・能力的に追いつけなくて倒れた。ただそれだけのこと。

なので、企業側に落ち度は無く、むしろそこで叩き込まれた「学生から社会人になるための意識変革」がその後の仕事の役に立ってくれている。

 

◆徹底したコスト意識

入社直後の研修で叩き込まれたのは君たちはいまここに存在しているだけで会社にとってコストである」ということ。

研修を受けているだけで何も生み出さない社員に支払われる給料、企業が国に納める社会保険料、研修に必要な人件費、使用しているホールや会議室の光熱費、配布される資料の作成費、当然すべてコストである。

「一秒一秒、会社のコストを膨らませていることを十分に意識して、研修に励んでほしい。」

という初日の人事担当者の言葉をよく覚えている。

 

◆お金を「払う立場」から「もらう立場」へ

学生は、自分なり親なりが学費を支払って勉強している。が、就職すればお金をもらう立場だ。会社でやる作業は研修だろうがなんだろうが「お金をもらって」する作業である。悩むばかりで成果物を報告できない作業、長いばかりで結論の出ない会議などもってのほか。自分の行動が対価に値するものか常にチェックする。

大学生に毛の生えた程度の新入社員は、意識の180度転換を求められる。

 

◆納期に間に合わなければ0

仕事には納期がある。クライアントの満足度を高めるために仕事の質を高めたい、とどんなに熱心に作業に励んでも、納期に間に合わなければ何もしなかったのと変わらない。

学生の頃は、ちょっと締め切りをすぎたくらいなら熱意を示せばなんとかレポートを受理してもらえて、評価の対象にしてもらえたものだが、ビジネスシーンでそんなことが起きるのはまぁドラマの中くらいだろう。珍しいからドラマになるのだ。

「何が何でも納期は守れ。」

OJTで叩き込まれた。

 

***************************

 

どれも超基本的なことだ。これを読んだ方は、当たり前のことを何を今さら、と思う方が大半だろう。

 

でも、意外とわかっていない人にも遭遇する。

病気退職して、次の職場に就職したとき、おじさま方の意識のゆるさに度肝をぬかれた。守られない納期、着地点の設定なしに開始して結論の出ない無駄な会議に何度いらついたことか。

文化の違い、で片づけてしまえば良いだけかもしれないが、私は新卒でこの2番目の職場につとめていたら、一生上述の3点を明確に意識できなかったんじゃないかと思う。

そしてきっと、「お金をいただいてものを書く」ということも趣味の延長程度にとらえて、納期もぐだぐだな、ダメフリーライターの代表になっていたことだろう。

 

だから、基礎の基礎を叩き込んでくれた最初の職場にはとても感謝している。

 

にもかかわらず、何もできない「コスト」のまま退職してしまいもはや回収の見込みのない不良債権状態になってしまって、大変申し訳ない。

しかもそんな不良債権人間に、退職後2年くらい経った頃だろうか。内輪の飲み会をやるから来ないかと声をかけてくれた。せっかくなのでと図々しいのを承知で行ってみると温かく迎えてもらえ、「今はあたらしい職場でなんとかやってます。」と近況報告をし、四方山話で大盛り上がりした。そして驚いたことに、解散後にマネージャーから「吉原さん、もう一度一緒にやりませんか?その気があれば、私は本気で迎えますよ。」というメールをいただいたのだ。

……なんと懐の広い。むだに高学歴なくせに何も貢献しなかった人間に、もう一度来い、とはなかなか言えない。

また同じことになるのが怖かったので丁重にお断りさせていただいたが、この恩は一生忘れないと思う。

**************************

 

私がそこに社員として戻ることはもうないだろうが、いつか何かの形で恩返ししたい。その日を迎えるためにも、上述の3点をいつも頭の隅に置きながら今の仕事に励もう。

 


ということで、お仕事のご依頼まってます。(結局宣伝)

 

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