アラサーライター吉原由梨の 「ようやく大人 まだまだ女」

フリーライター/コラムニスト、吉原由梨のブログです。 Webサイトを中心に執筆しています。 都内の大学法学部卒業後、 ITメーカーOL→ 研究機関秘書職→ 専業主婦→ フリーライター兼主婦 日々感じること、ふとしたことからの気づきを綴っています。恋愛と結婚を含む男女のパートナーシップ、人間関係、心身の健康、家庭と仕事、グルメや読書の話など。美味しいもの、マッサージ、ふなっしー大好き。 Twitter:@yuriyoshihara こちらもお気軽に。

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仕事

内省と社交のバランス、と言い換えてもいいかもしれない。

ふと「孤独」の対義語ってなんだろう?と思い調べてみたのだが、出てこない。いろいろな人がそれぞれの解釈でこの疑問の答えを導きだしていて、「群衆」「繋がり」「愛」なかには「無知」という哲学的な答えも。
これという正解は無いようだ。

こんなことを突然考え出したのは、この週末、たくさんの初対面の方々にお会いしたから。

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私が記事を寄稿している、とあるメディアさん主催の懇親会が先週末に開かれた。

普段はほぼ電話やメールのみでやりとりをする編集部の皆さん、そして私と同じようなライターの皆さんとが一堂に会して懇親を深める会である。

編集部の皆さんと直接顔を合わせるのも初めてなら、他のライターさんなんて記事読んだことしかないよ!どうしよう緊張する!と前日は吐き気がして小鳥の餌くらいの食事しかとれなかったが、当日なんとか会場にたどり着いた。

約四時間の会を終えて、
端的にいって

楽しかった!!

もちろん緊張はかなり続いていたが吐き気はおさまり、食事もおいしくいただけたし、スタッフさんやキャラの濃い(笑)ライターさんとの交流も楽しめた。
一括りにライターといっても活動形態や得意ジャンル、ライター業へのスタンスも様々で、いろいろな意味で勉強になったし、今後の自分の活動方針を考えるうえでいい機会になったと思う。

こんな場を与えてくださったメディア編集部の方々には大大大感謝である。

ちなみにどのくらい楽しんだかというと。

お昼集合で公式には17時解散、
そのあと編集部の方々が打ち上げをするのでお暇な方はぜひ~と事前にお声がけいただいていたのだが、
前日の時点では吐き気に悩まされていたので「まず無理だろうな…」と諦めていた。

ところが当日蓋をあけてみると意外に体調がもったので、お誘いに乗ってちゃっかりスタッフさんの打ち上げに参加しワインをがんがんいただき、偶然社長の隣に座っても臆せずがんがん喋り、しまいにはその後の三次会にまで混じってまた喋り、挙げ句の果てに休日出勤後の夫(完全部外者)まで合流させていただいた。

保護者参観日か…!

厚かましい限りであるが、とても楽しく、皆様のあたたかいお人柄と仕事への思いに触れられて大変幸せな満ち足りた時間だった。
夫も、妻の仕事相手の方々がとても良い方揃いで安心したようである。(だから、保護者参観日ではない)


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そんな楽しい週末を過ごした直後なので、
「孤独」と「人の輪」のバランスについ思いを馳せてしまう。


私の仕事は、基本的に一人でする作業が多い。

取材記事(インタビュー、メディア向け発表会、イベントレポートなど)の場合は、足を運んで人と会い、話をすることから始まるが、その後構成を練る段階、文章に起こす段階、推敲、どれも一人での作業だ。
また、取材なしで、自分の経験や考察から文章を紡いでいくコラムの場合、ネタを出す作業から推敲までずっと一人だ。

企業に所属するライターさんであれば、作業の合間に同僚と何かと話す機会があるが、私はフリーランスで自宅で書いているため、それもない。
カフェで書けば人はいるが、それは同じ空間に「存在」しているだけ。結局一人の世界である。

でも、私は決してそれが不満なわけではない。

文章を書くときは、ぐっと集中したい。注意力散漫なまま書いたら、論旨が通らずとっちらかった文章になってしまう。

それに、とくにテーマや切り口を考え、構成を組む段階では、作業は自分との対話のようになっていく。核を決めて、幹を伸ばして、枝葉を広げていく作業を頭の中と紙の上で同時に行うのだが、それは自分の頭や心の引き出しから、様々な関連パーツを見つけて引っ張り出してくるような内省的な作業だ。一人の世界に入り込まないとなかなか難しい。

推敲段階では、音読したり、敢えて初読のつもりで別人格になってみたりもするが(笑)、結局は自分対文章なので、やっぱり一人。

編集者さんに提出するまではひたすら孤独な作業だ。

もちろん記事が読者の目に届けば、直接の感想は聞けなくても、記事はようやく「孤独でない瞬間」を迎える。


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そもそも

ものを書くには、経験したり感じたりしたインプットを、自分の中で咀嚼して、理解し、熟成させる過程が必要である。
それを経てはじめて、解釈や考察として自分の言葉でアウトプットできるようになるのだ。
そしてこの「熟成」の過程は「孤独」な時間にこそ進む、と私は感じる。
みんなでワイワイしているときにはなかなか熟成しにくいようだ。

だから、
ものを書く人間には、ある程度の「孤独」が必要だ。

じゃあずーっと一人でいればいいものが書けるかといえば、絶対にそれはない。(寂しいし)


逆に、
新しい友人が出来たとき、みんなでワイワイしているとき、少人数でしっとり話しているとき、つまり人の輪のなかにいるときは、インプットの時間だ。
もちろん、人と交わってるときに「いまインプットしてる!」と意識はしない(笑) ただ、あとから振り返ると、無意識のうちに感性を刺激され、感銘をうけ、多いに笑い、ときに泣き、知らなかったことに触れる時間は、インプットの塊だ。

このインプットなくしては、熟成も、アウトプットも成り立たない。新しい風を自分の中にどんどん入れないと。

書く人間は
インプット
→咀嚼、熟成
→アウトプット
を永遠に繰り返す。



どこが欠けてもダメなのだ。

つまり、
孤独・内省と、人の輪・社交とのバランスを取っていくことは、特にフリーのもの書きにとって、とても重要なことなのである。



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とはいえ、人間そううまくはバランスを保ちきれない。(もしかしたら私だけ?)

シーソーゲームのように常に接戦状態でいてくれたら良いが、公園のリアルシーソーのようにどちらかにグググーっと傾きすぎてしまうこともよく有る。

特に体調がいまいちなときや、原稿のネタに行き詰まった時など、内省的になりすぎる。
一人でいろいろと考えすぎてもはや言葉が脳内で空転しはじめる。
SNSに手を伸ばしてみたりもするが、ちょっと気分転換にはなってもやはり孤独は変わらない。唯一の同居家族である夫は深夜帰宅なので、ほぼ一人暮らしのような私…。
執筆活動に欠かせない「孤独」も、度をこすとろくなことにならない。ネガティブ思考に陥ったり、寂しさから批判的な考えばかり浮かんだり、視野さえ狭めてしまう。

そんなときはもうとにかく、「人の輪・社交」側のシーソーに重しをのせてバランスをとる、にかぎる!!
外に出掛ける、本を読む、自然に触れる、映画、美術館、ショッピングでもいい。

でも一番いいのはやはり「初対面でも親しい友人でもいいから、人とがんがん喋る。笑って、感動して、時にはダメを出し出され、あたたかい気持ちで心を満たすこと。トキメキや知的好奇心が刺激されれば尚よし。」だと私は思っている。
個人的にはこれがいちばん効果アリ! 

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ここのところ、ちょうどその「孤独・内省」に傾きすぎ気味だったので、
先週末の懇親会は絶妙なタイミングだった。

思いっきり「人の輪・社交」側に重しがたっぷりのってくれたので、いま実にいい感じのバランスだ♪
多分、無意識に人との交流が恋しくて、大好きな方々の輪に入っていたくて最後まで厚かましくいたんだろうと思う(笑)


もう4重くらいの意味で、主催者の方々には感謝しなければ!

フリーライターでいる限りついてまわるこの「バランス問題」…自分で上手にコントロールできてこそ一人前。
ここにも精進ポイント発見せり。

道のりは長い。でもがんばろう




オリンピックのエンブレム問題に端を発し、マスコミでは来る日も来る日も「パクり疑惑騒動」が報じられている。
佐野氏のパクり疑惑のどこまでが黒でどこからが白なのかは、本人のみぞ知るなので私がここで言及するつもりはないが、「パクり」といわれる行為については日々感じていることがある。

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半年前にライターを始めて以来、私の頭は来る日も来る日もネタを探している。
たまに夢でも。
そして「まとまらない!」ってガバッと起きることも(汗)

一方で、「人に読んでもらう文章を書く」ということを一から学びたくて、魅力ある諸先輩方のブログやWebメディアの記事、紙媒体の記事にも以前より広く目を通すようになった。
以前はただぼけーっと読んでいたが、いまは言葉選びや文章の運び方、構成の仕方、情報の密度、「この書き手の方は誰に何をどう伝えたくて書いたんだろう」など、書き手の思考回路を意識しながら読むことも増えた。


それがパクり疑惑騒動とどうリンクするのかと疑問に思われるかもしれないが、
触れる文章が増えると、「意識なく」パクってしまう、似てしまうのが怖いなと、ここ半年ずっと感じてきたのだ。

自分では完全に自分の脳内もしくは日常のなかで生まれたネタ、切り口、文章だと思って書いていても、いつかどこかで目にした文章が脳のどこかにうっすら残っていて、知らないうちになぞらえていたらどうしよう、という不安がふと頭をよぎる。
あまりにも心配なときは、記事の完成後に、同じテーマで書かれた記事を検索して似通ったものがないか確認してしまうくらいだ。

もちろん、読者の引き込み方、文章の組み立て方など技術的な面で他の書き手さんの文章を参考にすることはある。(そういったスキルを紹介してくださる書き手さんもいるくらいだ)
それに、テーマが同じなら、内容に少し共通点があるくらいは仕方がないと思っている。(たとえば「結婚披露宴での服装マナーについて」などある程度「正解」があるテーマの場合は特にそうだ。)
でも、導入、筋立て、内容、結論、どれも似ているとなると故意でなくても「パクり」と判断されるだろう。そうならないための自衛策…。
小心者なのだ(笑)

最近では、タイトルをみて、自分が近々書こうとぼんやりとでも考えているテーマに関わりそうな記事は、敢えて読まない。「知らない」以上のパクり防止策はないと思うから。
そして自分の原稿の完成後に読んで、「なるほど~そういう視点もあったか」と悔しがったり楽しんだりしている。

また、誰かのブログにインスパイアされて、同じテーマで自分の意見を書きたいと思い、なおかつ内容が多少かぶってしまいそうな場合は筆者の方に連絡して許可をいただく。「引用元を明記しますので、かれこれこういう風に書いても構いませんか」と。意外とOKしてくださるものだ。「自分の文章が広く読んでもらえるのでむしろ喜んで」と言ってくださった方もいる。


やりすぎだと思われる方もいるかしれないが、世の中には山のように文章が溢れていて、そして「似ている」「似ていない」の受け取り方は読み手によって様々だ。
用心するに越したことはない。
自分の書いた文章を、堂々と世の中に出したい

半年の新人が語るのも甚だおこがましいが、何かを創っている人間にとって根も葉もない「パクり疑惑」をかけられるのはかなりの侮辱だ。仕事人としてもそうだが、人間としての尊厳を傷つけられた気分にさえなりそうだと思う。


もともと私が持つ小心者ゆえの防衛本能は、
今回の一連の報道によって一層研ぎ澄まされるだろう。
意識的模倣はいうまでもなく、しない。もうこれは職業倫理とかいう以前の問題だ。どうしても書けなくて弱い心が自分を誘惑することが万が一あれば、しばらく書くことをやめる。
そして、一番こわい「無意識の模倣」にも用心しないと、と改めて身が引き締まる思いだ。



それにしても、「痛くもない腹を探られる」という言葉がある。佐野氏の迅速な会見をみたときはその手の疑惑かと思った。それを晴らそうとしているのかと。が、あとからあとから出てくる疑惑をみていると、痛いところは多少なりともありそうな気配である。


痛くもないのに自覚のない病気があったらどうしようとブライダルチェックよろしく検索までしてしまう小心者の私と、自覚する痛いところがおそらくあるのに会見までしてしまう彼。

…人間って多様性に溢れているなぁと、そんなことまで感じさせられる今日この頃である。

もし、痛みの裏に膿があるなら、ごっそり出してしまってほしい。







最近プライベートで物凄く嫌なことがあった。
詳しく書くとややこしくなるのだが、端的にいうと信頼していた友人が理由もわからず去っていった。
私はあまり交遊関係を広く広く開拓していく方ではない。社交的ではあるし知り合いが増えるのは好きだが、本当に信頼できる心許せる友人はそう多くなくていいと思っている。そのぶん、そうなれそうな相手を見つけたときの喜びは大きい。

件の友人もその一人、だと思った。
知り合ってからの期間は短いものの、理解と共感を示してくれ、私も信頼をおいていた。それが最近、妙によそよそしいというか、消極的というか、距離をおかれていると感じていたのだ。はっきり拒絶されたわけではない。だが、以前とは明らかに違うのである。

日を追うごとにその実感は強まった。
キライになったならそういってくれればいい。
「もうあなたに興味がない」「気が合うと思ったけど見込み違いだった」「気にさわることがあった」
そう言われてしまえばこちらも諦めがつく。
だが、そうも言わないのだ。拒絶せず、かといって受け入れもせず、関心も示さず、ただただ静かに沈黙をもって遠ざける。
空気を読め、察しろということなのかもしれない。大人の付き合いとはそういうものなのかもしれない。でも私は納得がいかないし、純粋に悲しかった。
「私が手を離したらこの関係は終わるんだろうな」という予感が確信になっていく過程は、じりじりと真綿で首を絞められているようで、やたらと冗長な拷問のようだ。

思うに、私が幼いのであろう。空気を読むのも相手の心情を察するのも苦手ではないが、心を許した相手の前だとどうも心のガードを取っ払いすぎる。無垢な少女のようになんの用心もない裸の心で接してしまうため、不測の事態に戸惑ってしまう。相手の感情の変化に必要以上に過敏になり自分の感情まで不安定になる。
今回も、この件で限界に達していたとき、全く関係のない知人にとんだとばっちりをくわせてしまった。

それでもこの歳までなんとかやってこられたのは、相手の見定めを間違えなかったからだった。丸裸の心で接していても大丈夫という絶対的安心感のおける相手を、ほぼ直感で見極めてきた。周りからも「その洞察力と直感力はすごい」と誉められたし、自分でも少しばかり自信があった。

しかし今回は外れたのだろう。
あれやこれやと原因を考えても思考が空転するばかり。見る目がなかった、と自分を納得させている最中である。
少しばかり用心深くなれという天からの忠告かもしれない。


そんなこんなで心が荒みまくっていたのであるが、フリーランスにお盆は関係なく、夫も通常通り仕事なため、我が家にとってお盆は「ちょっと街がすいてるただの平日」だ。
折しも、幸運なご縁で舞い込んだ取材仕事の予定がガッツリ入っていた。

フリーのライターをしていると、基本的に作業は自宅でするし一人である。でかける必要もなければ人と会話する必要もない。もちろん集中力は必要とされるので悩みごとの思考回路は一時的に遮断されるが、どうしても気分が内向きになる。

しかし、取材となると出掛けていって人に会う。TPOにあった服装をし、ヘアメイクもして、名刺をもって「onの私」になるわけだ。
そして取材先で人と接し、新しい情報に触れ、これをどう記事にしようかと頭をフル回転させる。
どんなに前夜気分が荒んで眠れなくても、仕事関係の場でしけた顔は出来ない。

取材が終わったら、(記事の内容にもよるが)タイムリーな発信が望ましい場合は、ダッシュで記事に取りかかる。今回もそのケースだ。編集部に電話して翌日の朝の発信に間に合うには何時までに入稿すれば良いかを確認し、帰り道のスタバに入って昼食をとりながら組み込みたい内容と構成を手書きで練る。(私は構成は手書き派だ) 写真を整理し、ダッシュで帰ってPCに文章を打ち込む。

悩みごとの入る隙はないのだ。


入稿して一息つき、家事にとりかかるとやはりまた思い出す。
なんとなく、また連絡がこないかななんてどこかで思わなくもない。
でも、前夜までの悲壮な気分ではなく、どこか少し割りきった心で考えている。悲しいことには違いない、でももう仕方ない、と。
仕事を仕上げたことによる自己肯定感からなのか、アドレナリンのせいなのかはわからない。ただ、集中せざるを得ない仕事があってくれたから少し癒されたことは確かなのだ。

前にもこういうことはあった。
恋人にふられたとき、家族とひどくもめて酷い言葉を吐かれたとき。
もうダメだと思ったけれど翌日には仕事にいくしかなく、そこにはやるべきことが山積みになっていてそれを淡々とこなすしかない。キーボードを叩きながら無意識に涙が溢れてきて慌てて席をたったこともあった。
それでも毎日毎日出勤すれば、仕事の間だけはいやなことを忘れられ、忘れられる時間を積み上げていくうちになんとなく傷は癒えていく。
問題は解決しない。でも、少しストレスが和らぐのだ。


単なる「時間グスリ」ととらえることも出来る。
でも私は「仕事グスリ」だと思う。お金をもらって働くからには集中せざるを得ない。集中は思考回路の切り替えだ。悩みのど真ん中にいた自分を一瞬でも外側に連れ出してくれる。
それによって、悩みを客観視できるのかもしれない。

仕事でなくても、没頭できる趣味でもいい。外に出掛けていくことなら尚良い。
とにかく悩みのど真ん中から一旦逃れ、客観的に見られる機会を作るのが実に大切だと改めて思った。
ストレスの量は減るし、解決に向けた違うアプローチが見つかるかもしれない。


怠け者で決して働き者とはいえない私がこんなにも仕事に救われるのも妙な話だが、これまで体感してきたように、今回もこの「仕事グスリ」がじわじわと効いてきてくれるのを信じて淡々と働こうと思う。


そして同時並行で、人を見る目と直感を、30代仕様にグレードアップさせておこう。
こんなにも心をかき乱されるのは、もうこれきりで十分だ。






嬉しい嬉しいニュースが舞い込んできました

ハンドメイドキャンドルのコンテスト
『トモスキャンドルクラフトコンテスト』で、
先日仕事で取材させていただいた兼島麻里さん(『Ballare』代表)が、
キャンドルクラフト賞を受賞されました!!


おめでとうございます!


何が嬉しいって、
実は私はこのコンテストの展示会を観に行き、
そこで兼島さんのキャンドルを見て惹かれたのがきっかけで、取材を申し込ませていただいたんです。


なので、そのコンテストでの受賞は特にうれしい。
兼島さんのキャンドルにかける思いを伺った後だったので、このご報告をいただいたときは私までウルッと来てしまいました。

兼島さんのインタビュー記事はこちら↓です。

ちなみに第2回の記事に載っている写真が、受賞作品です

【インタビュー連載】 キャンドル作家・兼島麻里さん ~第1回 キャンドル作りとの出会い~

【インタビュー連載】 キャンドル作家・兼島麻里さん ~第2回 『Ballare』代表と母業との両立~


【インタビュー連載】 キャンドル作家・兼島麻里さん ~第3回 灯しやすく、見た人が心躍るようなキャンドルを作りたい~


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「コンテスト会場に足を運び、実際に作品を見てくださって記事にまでしてくださった吉原さんに一番に報告です」
とご連絡いただいたときは、
本当に本当に感激して涙が出ました。

はじめてのインタビュー取材記事で、いろいろ手際が悪いところも多かったに違いない私に根気強くお付き合いくださり、記事にまとめる上での細かい質問や、原稿チェックもお忙しい中快くご対応して下さいました。

何より兼島さんの「こういうことを伝えたい!」という思いがはっきりしてらしたので、
こちらも「それを正確に読者に伝えよう!」と気の引き締まる思いがし、媒介者としてとてもやりがいのある仕事でした。


記事が発表されて、兼島さんご本人やご主人もその内容に喜んでくださっていると聞いて、ホッと安堵したのが昨日のことのようです。


そんないい経験をさせていただいたのに、その上こんな嬉しいニュースのおまけまで追加されてしまって、運を使い果たしていないかちょっと心配です(笑)


これからも、兼島さんがますますご活躍されますように

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人気ブロガー小林トシノリさんが、
こんな記事を書いてらっしゃいました。


「妥協」にならない、完璧主義のやめ方(仕事編)
http://enrique5581.net/not-compromise-perfectionism-stop-work/


耳が痛いですねー。
家族にも友人にも医者にも「完璧主義だねぇ」と言われ続けてウン十年の私には、そうだねぇそうだねぇと頷くご指摘ばかり。
あ、ただ私は期限は守りますよ。
「完璧じゃないから納期きたけどまだ出さない」とかそんなとんでもないことは言いません。むしろ、途中で体調不良で停滞してもいいように「自分納期」はクライアント納期の最低でも3日前です。

ただ、私の何がやっかいかというと、生来は怠け者のくせに、完璧主義なんです

そんなストイックな日々を送りたいわけでもないダラダラした人間で、なるべくのんびりしていたいのに、やるとなると自分にえらく高い要求を突き付ける。
結果、怠け者の自分に鞭打って完璧主義者的結果を出そうとするので、その過程は大変なハードシップになってしまい、人の何倍もの精神力と自律心を必要とします。

もう本当に厄介です。

どのくらい厄介かというと、、

■怠け者の完璧主義者が歩むいばらの道

中学三年→英単語を3000語覚えろという母校独特の鬼のような試験があり、勉強なんて嫌いなのに受けるからには合格したい私は仕方なく勉強する。なんか連日胃がキリキリムカムカするようになり、おかしいなぁと思い親に症状を説明したら、「それ胃潰瘍のはしり」と言われて薬を与えられる。結果合格。

(うちは中高一貫だったので高校受験はありません)

高校一年→校内弁論大会でクラス代表になり、そんなの適当にやっときゃいいのに立派にやろうと思うあまり本番2時間前から吐き気を催し、直前に吐く。結果入賞。

放送部のお仕事で校内行事の司会(数えきれないくらいやった)→さすがにこれは吐きはしないが緊張で吐き気に苦しむ

高校→勉強が嫌いなのに、勉強が好きな人しか行かない大学に目標を設定してしまい、決めたからには絶対合格したくて、過酷な受験勉強に息切れ。

大学入試センター試験→「ここでしくじったらすべて水の泡」のプレッシャーで当然吐く

二次試験→いわずもがな

大学一年→周りの優秀な同級生と同じ試験を受けることにとんでもないプレッシャーを抱き、試験期間はずっと体調不良。食べられない、お腹が痛い、吐き気、とにかくありとあらゆる不調。
試験後胃カメラ。
(そして蓋をあけてみると以外と成績がよかったりする)

これ、在学中四年間続きます。

すべてに共通するのは、

別に誰も強制してないのに勝手に目標を高く掲げ自分を追い詰める
頑張るのはいいことだが頑張りすぎる
結果がすべてだと思っている
身体に影響がでまくる
悲観的


面倒くさい人間ですね~。何より自分が一番しんどいです。


仕事をするようになってからも基本的にはかわりません。
ただ、自分との戦いだけしてればよかった学生時代とは違って、チームで仕事をする場合その仲間、カウンターパートがいる場合そちらの利益も関係してきますから、少し私の完璧主義も現れかたが変わってきました。
「人に迷惑をかけてはいけない」というプレッシャー、
「ミスは許されない」というプレッシャー、
「常に評価されている」というプレッシャー、
「速く成長しなければ」というプレッシャー。

いま考えれば、新卒の新人に誰も完璧を期待しているわけもなく、新人のミスなんて計算のうち、むしろ失敗しながらじっくり成長してほしいと思われていただろうに、

自意識過剰な私は一人プレッシャー地獄へズブズブと沈んでいったわけです。自滅。


教授秘書への転職後は、 民間企業のように利潤追求を目的としない分ノルマも営業成績もなく、そういう点では精神的に楽でした。
ただ、どこにいっても良い点悪い点あるもので、結局またプレッシャー地獄に陥ります。
どういすうことかというと、チームで仕事をするわけではなく、私一人で研究室の業務を回していたので、とても神経を消耗しました。
大学院生にかかわる手続きというのは、博士論文審査のための書類作成や、奨学金の申請、留学生受け入れのための大使館とのやりとりなど、学生の進路を決定付ける非常に重要なものが多く、きっちりとした正確さとスケジュール管理が必要とされました。学生は50人います。
そして上司の教授は、典型的な「事務的なことどうでもいいよ」タイプなので、大学から来ている重要なメールなどもほぼスルーです。

そうなると、私の預かり知らないところで期限は着々と近づき、下手すると過ぎ、真っ青な顔をした学生が「どうしよう!」と私のところへ駆け込んでくるわけです。
私 ポカーン。

学生と一緒に状況を把握し、方々に謝罪して回って期限をなんとか延ばしていただき猛スピードで準備します。そんなことが何度あったかわかりません。大学のあらゆる部署から苦情催促のメールを受けまくりました。謝る技術は上がりましたね…。

そういうことがあった翌日、一連の経過を報告すると定番のお言葉「ぼくはアカデミックな本質的なことはやるけど、つまらない事務事はどうでもいいんだよ」

・・・でしたらそのつまらないどうでもいい事務事は私がやりますので、全部私に転送してください!!(アルカイックスマイルで話しつつ、内心はらわたが煮えくり返っている)


そんな具合でしたので、新卒の頃とは別の意味での「私が見落としたらダブルcheckする人は誰もいない。きっちり網羅しないと」というプレッシャーが半端なく、責任感から来る完璧主義に日々苦しみました。

唯一の救いは、ここでは私の完璧主義は私自身を苦しめはしたものの、仕事を全うすると言う観点では役に立ちました。(上司いい加減、秘書いい加減だと、想像するのも恐ろしいカオスが待ってますからね…。)


☆二の轍、三の轍…いや十の轍を踏まないために


とまぁこんな具合に自分の性格はよーくよーく分かっているので、
現在のライターの仕事も
健康を損なわず、細く長く、positiveに続けることを第一に考え
○無理かもと思う量を引き受けない
○ストレスで健康を害するほど根詰めるならやめる
○原稿の質も完璧を求めない
○性急に結果(アクセス数、収入など)を求めない


という大原則
をいつも意識しています。

これは、現在も私自身が完全な健康体でないこと、そして私の本業は主婦として多忙な夫を支えることである、という2つのことも理由です。(時代錯誤かもしれませんが、主婦業が疎かになるような働き方はしないと決めています)

参考 専業主婦に憧れる女子たちへ vol.1 ~私はなぜ専業主婦になったのか~ |
専業主婦に憧れる女子たちへ vol.5 ~結局どうなの専業主婦!?~


ありがたいことに、先月担当コラムの本数を大幅に増加しないかというオファーをいただきました。ほぼ倍増です。
とても光栄なことですし、やりたい気持ちもありました。
下積み期の仕事人としては、一も二もなく二つ返事で引き受けるべきでしょう。
でも、引き受けたら私はきっとプレッシャーで眠れなくなり、胃がいたくなるまで根を詰めます。
本数をこなすためにやっつけ仕事の原稿を量産し、そのことにストレスを感じるでしょう。

手に取るように分かります。

ですので、大変申し訳ないのですが、倍増はお断りし、微増、にさせていただきました。(他にも大人の事情もありました)

仕事人失格かもしれませんが、「自分の気質、体質とつきあっていく」とは、そういうことだと割りきっています。


そして、
「まいっか」←小林さんも実践されてるそう
「何事も適当に←ふなっしーの名言
を敢えて口癖にし、ともすれば完璧主義にぐぐぐーっと傾きそうな自分に歯止めをかけるようにしています。


適当万歳!といいたいわけでは決してなく、
何事も
真剣になるのは良いけれど、深刻になるのは良くない
と思うのです。
深刻になってしまうと、取り組むことや頑張ることそのものが苦行になってしまい、思考回路もどんどん悲観的になります。下手すれば健康を損ねます。
最悪のケースを仮定してそれに備えるのは大切なこと。でもそれは淡々と備えれば良いのであって、憂いや深刻さを伴う必要はありません。



☆完璧主義も、役に立つこともある

ここまでの話では、私がいかに完璧主義に苦しんできたか、いまいかにそれと付き合っているか、という「完璧主義撲滅論」になってしまいそうですが、
そう悪いことばかりではありません。

先程秘書の業務において、自分は苦しかったが業務を全うするうえでは役に立ったと書いたように、効を奏する場面もあるのです。

たとえば、
私は数年前に大事な友人の結婚披露宴で友人代表スピーチを頼まれました。
「緊張で吐くから勘弁して…」と断ってしまえばそれまでですが、大好きな友人の晴れの舞台で一役かえるなんて幸せなことです。
あえて引き受けることにしました。

やるからには、この上なく喜ばれるスピーチをしようと思いました。(早速完璧主義の私がムクムク顔を出しますw)
緊張に対処するには周到な準備しかありません。一ヶ月前から原稿を書き、起承転結、友人の人となり、ユーモア、二人のなれそめ、友人としての心からの祝福が漏れなくダブりなく入っているか、マナー的に問題がないかをひたすらチェック。
声に出して読んでは時間を計る。親しい友人二人に聞いてもらい、忌憚のない意見をもらう。推敲する。
最終的にはデジカメで動画を撮影しながら一人リハーサルを暗記するまで何度も何度もこなす、という仕事のプレゼン張りの準備をしました。

個人的に、スピーチを読み上げるのはみっともないと感じるので、完全に頭にいれて、でも万一のお守りのために小さく畳んだ原稿をハンカチと一緒に手にもって(ここら辺に心臓の小ささがでてる 笑)本番に挑みました。

夢中で喋りましたが、棒読み感も出ず、堂々と、笑いもとりながら非常にあたたかいスピーチをすることができたと自負しています。何回も飽きるほど読んだ原稿なのに、友人本人を目の前にして喋ると自然と涙が出ました。本当に、この大切な役目を私に任せてくれてありがとう、そう思いました。

友人代表スピーチというのは、「友人」を通して「新婦」の人柄や品性まではかられます。類友ですからね。私がきちんとスピーチをすることは、花嫁自身の評価にもつながります。手前味噌で恐縮ですが、私は役割をきっちり果たしたといまでも思っています。


このように、完璧主義も場面によっては長所です。度が過ぎないように、周りまで巻き込まないように気を付ければいいだけ。
完璧主義をすべて捨ててしまう必要はない、バランスの取り方を身に付ければ良いのだと思います。

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☆「満点」でなく「沸点」を目指すともはや芸術

冒頭でご紹介した 小林トシノリさんのblog にもあるとおり、
仕事の場面においては完璧主義者は敬遠されがちです。
なぜなら、
質にばっかりこだわってスピードが遅い
量を捌けないから周りがわりをくう
所詮自己満足にすぎない場合が多い
痛々しい
からでしょう。

一理あると思います。

ただ、たまにいるんです。
自己満足とかそういう次元をはるか越えて、
同僚もクライアントも関係者全員が感動するレベルの成果物を生み出す完璧主義者が。
まれではありますが、
そういう人物のやりあげた仕事をみていると、もはや芸術です。ロジックの緻密さ、発想の斬新さ、論拠の手堅さ、さらには一匙の遊び心さえもが調和がとれており感動すら覚えます。
もちろん仕事が遅いなんてわけはなく、納期に間に合わせるなんて地動説並みの常識です。

そういう人をみると、私は
「この人は満点でなく沸点を目指してる」
と感じます。
低い順にならべて、及第点→満点→沸点。
つまり沸点とは、単に「ミスがなくて完璧」な満点をはるかに通り越して「人に感動を与える」レベルです。
そして沸点を目指すレベルの人は、(端から見ると苦行レベルのハードな邁進ぶりなのですが)本人はそれを楽しんでいる。「こんなことできて幸せ!」とすら感じながらイキイキやっているので痛々しさもなく、周りをポジティブに巻き込んでいきます。

ジャンルは違いますが、例えばフィギュアスケートのキム・ヨナ選手。彼女のバンクーバーオリンピックでの演技はまさに沸点でした。


仕事で沸点に達することが出来るのは、ある程度以上の天賦の才と、努力、レジリエンス、ニーズを汲み取る力、多面的なものの見方、あらゆるものを兼ね備えた一握りの人かもしれません。
私のような普通のありふれた人間が、真似しようと思ってもなかなかできません。

ただ、こんな怠け者完璧主義者の私でも取り入れられそうだと思ったことがひとつあります。

満点を目指すとき、人はどこか息苦しく、減点方式になる。
沸点を目指すとき、人はどこか楽しく、加点方式になる。


ということです。これは人を観察したり、自分自身の経験を通しても感じたのですが、
満点をとろうとすると「ミスをしてはいけない」というほうに視点が行き、思考方法が「あるべき状態」からの減点方式になっていくんでね。


他方で沸点を目指してみると、しっかり基本的なポイントをおさえたら、あとはミス云々ということより、いかに工夫を凝らすか、相手が喜んでくれるものになるか、と考え方が加点方式になります。そして相手が喜んでくれるということはすなわち相手意識ですから、自己満足から1歩脱します。(もちろん、それを本当に相手が喜ぶかは蓋を開けないとわかりませんが、意識するのとしないのとでは雲泥の差でしょう。)


これは精神衛生上、そして仕事への取り組みとして大変大きな差です。


☆完璧主義を完璧にやめようとしないで

長々と書きましたが、
完璧主義を脱することができれば、自分も周囲もかなり楽になるでしょう。
ただ、長年の気質とは怖いもので、なかなか根っこから変わるというのは難しい部分もあります。

ウン十年間、完璧主義者の酸いも甘いも味わってきた(ちっとも嬉しくありませんが)私としては、完璧主義の人が完璧主義をやめようとすると、完璧にやめなければと思いすぎてかえって神経質になる。という世にも恐ろしい事例もみています。

ですので、あまり深く考えず

まずは、
納期を守る、相手意識を持つという社会の基本をおさえながら、
「まいっか」
「何事も適当に」
「完璧主義も役に立つこともあるけど、バランスバランス」
「真剣はいいけど深刻はよくない」
と、傾きすぎる自分のシーソーをぐぐぐーっと戻してあげてください。


そしてそれでもどうしても完璧主義がニョキニョキ顔を出すときは、
腹を括って、「どうせなら沸点を目指そう」と明るく加点方式ではりきってください。
そして周りとの調和を大切にしてください。


生まれもった気質、長年の考え方の癖と付き合うのは骨がおれます。
でも、心と体の健康を守れるのも自分しかいませんので、まずはちょこちょこっとした工夫からはじめてみるのはいかがでしょうか。


では、今日はこの辺で





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