アラサーライター吉原由梨の 「ようやく大人 まだまだ女」

フリーライター/コラムニスト、吉原由梨のブログです。 Webサイトを中心に執筆しています。 都内の大学法学部卒業後、 ITメーカーOL→ 研究機関秘書職→ 専業主婦→ フリーライター兼主婦 日々感じること、ふとしたことからの気づきを綴っています。恋愛と結婚を含む男女のパートナーシップ、人間関係、心身の健康、家庭と仕事、グルメや読書の話など。美味しいもの、マッサージ、ふなっしー大好き。 Twitter:@yuriyoshihara こちらもお気軽に。

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映画「オーバー・フェンス」の公開が待ち遠しい。



待ち遠しくて待ち遠しくて待ちきれないので、原作「オーバー・フェンス」が収録されている短篇集「黄金の服」を読んだ。

感想を書きたいが、「オーバー・フェンス」について書くと映画のネタバレになってしまうので、タイトルにもなっている収録作品のひとつ「黄金の服」について。
黄金の服 (小学館文庫)
佐藤 泰志
小学館
2011-05-10



佐藤泰志「黄金の服」
この作品は、起承転結! はい拍手! という感じではなく、ある若者たちの人生の一部をブツっと切り取ったような、静かな作品だ。静かではあるけれど、短い物語の中にいろんなものが渦巻いている。

20代前半の彼らは、プールとバーで『泳いで、酔っ払って、泳いで、酔っ払って』そんな単調で、無目的にも思える日々を送っている。まだ思春期を引きずっているような混沌を抱えていたり、目標を追い続けるか諦めるか葛藤したり、若い時代特有の衝動と悩みを持て余していて、だからプールとバーで切実に泳いで切実に酒を飲む。

主人公の「僕」は、仲間の一人でアキという年下の女性が気にかかっている。多分、アキもまんざらではない。何度か寝たこともある。アキは一度結婚生活に失敗したせいなのか、精神安定剤と睡眠剤が手放せず、外に出ると体中が汚れている気がして、帰宅するなり全身を徹底的に洗わなくては気が済まない。しかしその姿を見てショックは受けても、カラッとした性格で知的で快活な彼女に、僕はどんどん惹かれていく。

が、唐突に僕は知ることになる。
アキにはフィアンセがいて、もう来月にでも新居へ越すと。
物語の中でもそれは唐突に書かれていて、読者によっては「えーなんでなんで?」と思うかもしれない。ちなみにその点についてのアキの心理描写は一切ない。が、私はアキの気持ちが分かった。分かったというのは傲慢だ、勝手に想像しただけだから。でも、「そりゃそうだよね」と思ったのだ。

アキと僕は気が合う。一緒にいれば楽しいし、お互いを異性として受け入れてもいる。でも、だめなのだ。僕とじゃだめなのだ。
アキが何か喋るとしたら、こう言う気がする。「あんたと私じゃだめなのよ。今みたいに、泳いで、酔っ払って、泳いで、酔っ払って、それだけでいいなら楽しいかもね。でも、人生そうもいかないでしょ。あんたと私じゃ、きっと共倒れよ」と。

アキが必要とする相手は、しっかりと現実的に人生を見据えていて、かつ彼女の事情を承知したうえで、彼女が1人内省の洞穴に入り込んでしまいそうになったときには力強く、でもそっと太陽のもとに連れ戻してくれる、そんな男だ。
僕じゃ、自分のことすらよく見えてない。アキの事情は承知していても心を痛めるばかりで自分までオタオタする。アキの病状が悪化したら、彼女に共鳴するあまり一緒に洞穴に入りかねない。それじゃダメなのだ。
優劣ではなくて、種類が違う。小説の中で、僕はアキのフィアンセを『地面にしっかり足をつけて生きている男特有の自信に満ちた声で名のった』と描写している。

現実にも、そういうカップルを見かけないだろうか。お互いのことが好きで好きで、相性は抜群なのだけれど、どこか地に足がついてなくて、二人の世界に閉じこもる。何年かはべったりした時間を楽しめるけど、現実に対応しなければいけない壁にぶつかったとき、二人してぐらついてダメになってしまう。もしくは、どちらかが「これじゃダメだ」と終わりを決める。
恋愛の仕方なんて自由だからそれはそれでいいが、アキが避けたかったのはこういうことなんじゃないか。

著者は、1990年に享年41歳で亡くなっている。答え合わせはできない。読み手がそれぞれアキの心情を読み解くのも面白いかもしれない。






読みました。
電子書籍の感想を書く2行目にこんなことを書くのもどうかと思うのですが、実は私、電子書籍が嫌いです。友達が持ってるものをちょっと触らせてもらったときに、どうにも本を読んでる感じがしなくて、フィルター越しの異世界を覗いているような感覚になるのがイヤでした。本を持った瞬間の重さで分厚さを実感する体験も出来ないし、あるページと別のページを瞬時に読み比べることも出来ないし、読書するときにまでブルーライトを見つめたくないし、とにかくアナログな私にはちょっと馴染まないなぁと。
で、今回チェコ好きさんが本を出されると知って「読みたい!」と思ったものの、「電子書籍か、まじか……。」と一度は諦めたんです。でもamazonで読める目次を眺めてると、もうどうしてもどうしても読みたくなって、電子書籍デビューを決めました。
ただし、「Kindle端末買ってもどうせ今後使わないだろう」ということで、スマホとパソコンに電子書籍用アプリをインストールして。

そんなわけで初の電子書籍だったこちら、とっても読みやすかったです。
チェコ好きさんは日ごろから、ブログで文学や芸術についての文章を書かれていて、それは決していわゆる「超とっつきやすい」分野ではないんですが、ご本人がしっかり噛み砕かれているからなのか、分かりやすいんですよね。
この『旅と日常へつなげる』の中にも、文学作品やその中で展開される学説・哲学が度々登場します。学校で授業が下手な先生が話したら多分居眠りする生徒続出でしょうが、チェコ好きさんの丁寧な解説やたとえ話、親しみやすい語り口のおかげで「ふんふん、なるほど」とガツガツ読めました。

◇パラレルワールドにリアルワールドが侵食される不気味さ

で、また私のカミングアウトをさせていただくと、実は私、インターネットがあんまり好きじゃないんです。

そう言いながらこの文章もネット上にあげているし、SNSはtwitterとfacebookとLINEを使っているし、何よりインターネット上に載る文章を書く仕事をしています。そんな人間が「インターネット好きじゃない」って、ちょっと由々しき事態なのかしらとあまり口に出来なかったのですが、チェコ好きさんがこの本の中で『実は今でも、本音を言うと、「インターネット」が嫌いなんです。』と書かれているのを見て、「いたー!ここにもいたー!」となんだか心強くなり、言ってみることにしました。

とは言っても、インターネットの恩恵を十分にうけていることは自覚していますし、もしインターネットが無かったら仕事も出来ないので、「インターネット無くなってしまえ」と思ってるわけではありません。
ただ、SNSに代表されるインターネットでつながった世界というのが、リアルな世界と同様、もしくはそれ以上のパワーを持ったパラレルワールドのように感じられることがあって、そういうとき、背筋がすっと凍るような感覚に襲われます。パラレルワールドがパラレルワールドであってくれる間はまだよくて、どんどんそっちの世界がリアルの世界を侵食しているような(いま私は物理的にはあり得ないことを言っていますが、人間の感覚の中での比率の問題です)、それが日を追うごとに静かに確実に進行しているような気がします。

実際、3~4年会ってなかった友人と再会したとき、「久しぶりー!もう何年ぶり?でも、Facebookで見てるからちょくちょく会ってるような気がするよ」という会話を私自身もしたことがあります。他愛もない、ほほえましい会話ですし、なかなか会えない友人の顔をネット上ででも見られるのは嬉しいです。
でも、この「気がする」って危険な感覚だと思いませんか。
会ったような「気がする」、実際行ってないけど行ったような「気がする」、実際に見てないけど見たような「気がする」……。便利です、確かに便利なんです。極端な話、1日中家にいて誰とも会わなくても、友達の顔を見た気がする、Twitterを開くことで誰かと会話した気がする、あちこち出かけた気がする。案外それで満足出来るかもしれない。そうすると、実際に「会いたい、話したい、見たい、出かけたい」と思う意欲や渇望感がどんどん減っていくんじゃないかと。
パラレルワールドの中の体験で満足してしまって、リアルな世界での行動意欲が減退するのは、本来リアルでの活動を円滑化・効率化するために存在するツールにリアルが乗っ取られているわけですから、手段の目的化というか、本末転倒です。

こういった日頃の思いがあって、チェコ好きさんが本書で『身体性を取り戻す』と書かれている部分に、深く共感しました。実際に体験すること、深く関与すること、「実感」というものを大切にすること。質感の無いパラレルワールドの住人にならないためには、欠かせないのではないでしょうか。


◇私なりのデジタルデトックス

この本の中で、チェコ好きさんは旅を契機に短期の『SNS断ち』をしています。
先ほども述べたとおり、私はWeb上で文章を書く仕事をしているので、なかなか完全なるデジタルデトックスは出来ません(たまにしたくなります。ディスプレイを見るのもいやで、鉛筆で書いた手書き原稿をFAXで送りたい……と妄想することもしばしば)。SNS断ちだけでも、と思っても、自分の記事の告知をしたい、いま注目されている記事をチェックしたい、とついつい毎日開いてしまう。
ただ、こういう仕事をしているから特に、自分の中でのバランスを意識して調整しないとパラレルワールドに片足つっこみそうになることがしばしばあります。
そういう疑似体験が実体験を駆逐してしまいそうなとき、私はとにかく人に会います。しかも、あんまりSNSを使わない人に。
ありがたいことに私の周りには「プライベートで使うインターネットは、LINEと、食べログと、一休と、路線検索と、amazon。Facebookは使うけど、たまに見るくらいだなぁ。」みたいな人が結構いて、彼・彼女らと一緒に時間を過ごしていると、ゆがんだ骨盤が矯正されていくように、片寄った重心が良い感じに戻っていくのを感じます。会話の内容も、私が仕事の話をすれば多少インターネットの話になりますが、それ以外の話をしていればパラレルワールドでの出来事は登場せず、ひたすらリアルの世界での話で盛り上がる。
この時間がいまの私にとってはデジタルデトックスです。時間にすればたいした長さではありませんが、精神的濃度が密なので、なかなかの効果を感じています。



電子書籍が嫌いだとかいいながら、結局読み終わった満足感はとても高かったです。印刷して綴じておきたいくらい(違法なのかな?)。 インターネット大好きだけどたまに疲れるよ、という人も、 私のようにインターネットあんまり好きじゃない人も、 これから日を追うごとにどんどん生活の中での勢力を増してくるであろうインターネットとの付き合い方の一つの提案として、ぜひオススメしたい1冊です。

久しぶりの更新になってしまいました。
大変遅ればせながら、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
    
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タイトルの通り、スコット・フィッツジェラルド著、村上春樹訳の小説『グレート・ギャツビー』で今年の泣き初めをした。
男のロマン、夢の儚さ、人の心のうつろいがなんとも心に切なく訴えかけてくる作品だった。そしてこの作品の大ファンだという村上春樹氏の翻訳が、このうえなく素晴らしい。

村上春樹作品が読めなかった私
村上氏といえばグレート・ギャツビー以前にもたくさん訳書を出している。その中でいちばん印象に残っているのが2003年の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』だ。それまで『ライ麦畑でつかまえて』の邦題で日本人に親しまれていたサリンジャーの小説を、キャッチャー・イン・ザ・ライのまま出した!なんじゃそりゃ!と物議を醸していた記憶がある。
当時大学の教養課程の学生だった私は、英文学者・斉藤兆史先生の「翻訳論」という講義をうけていた。その講義の中でも、村上氏のキャッチャー・イン・ザ・ライはたびたび登場した。なぜそれまでの邦題を使わなかったのか、どういう解釈や意図のもとそうしたのか。本文も随分引用された。

そんなに話題になって講義にも登場したにもかかわらず、私はキャッチャー・イン・ザ・ライを読んでいない。なぜかというと、作品自体にもあまり興味がなく、そして……ファンの方すみません、村上春樹氏の作品が苦手だったから。
「風の歌を聴け」で「?」となり。「羊をめぐる冒険」で「??」となり、心折れる。
その後ひとのすすめで「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読んではじめて「面白い、いける!」とにわかに盛り上がったものの、「1Q84」で挫折し、再び心折れた。
もう私の感性が足りないか読解力の不足だろうと、村上氏の文章を読むことはあきらめた。

きっかけは『映像の世紀』
そんな私が今回『グレート・ギャツビー』を読んだのは、NHKの映像の世紀という番組がきっかけだ。1900年代の世界をひたすら映像で追う番組で、複雑な近現代史がわかりやすく、そして印象強く頭に入ってくる。1995年に放送された番組のデジタル・リマスター版が今年のお正月に放送され、熱烈なファンの夫がすべて録画したので三ヶ日中ずっとみることになった……いいけど。
その番組の中でアメリカの1920〜30年代を描写するのに必ず登場するのが、スコット・フィッツジェラルドだ。彼の名前をあまりにも聞きすぎて、作品を読まずにはいられなくなり、それならグレート・ギャツビーからだろう、となった次第。

迷った挙句、村上氏の訳で読んでみた 
ここで問題にぶつかった。この作品も何人かの日本人によって訳されている。誰の訳で読んだものか……。最新は村上春樹さんだけど、私大丈夫かなぁ(とてもとても不安)、という迷いをTwitterにこぼしてみたところ、尊敬する書き手の方が「小説だめでも訳書は大丈夫ですよ!」と背中を押して下さった。よし、それなら!とポチり、久しぶりに村上春樹氏の文章と対峙した。

で、結果、泣き初めである。
村上氏の訳は素晴らしかった。実は、事前に青空文庫で他の訳者さんのバージョンもところどころ読んでみたのだが、村上氏の訳のほうが、原文の文体というかリズム感や、世界観をより忠実に再現している気がした。
(もっとも原文は鬼のように難しくて、ごくごく一部しか読みこなせなかったので、あくまでも私が感じた限りでは、の話だが。)
フィッツジェラルド独特の、複雑なんだけど流れるような文章、とでもいえばいいんだろうか、それを見事に日本語で再現している。

絶対にそれは並大抵の作業じゃない。
私が朗読をやっていたことは以前書いた。朗読をする人間にとって訳文は鬼門だ。
なぜかというと、たしかに外国語から日本語にはなっているのだけれど実感として意味が分かりにくい文章が存在するのがひとつ(本格的にわからないと、原文にあたってみるはめになる)。
そしてもう一つは(こっちのほうが朗読者にとっては残酷)、文章のリズムが崩されていることだ。原文には確かに存在する文体やリズムが、違う言語に訳されることによってどうしても崩れてしまう。もうこれはある程度仕方がない。ただ、聞き手にわかりやすく、なおかつ聞いて心地よい読みをするのは至難の業なのだ。

村上氏の情熱、精緻さ、そして感性
しかし、その「ある程度仕方がない」リズムの崩れを、村上氏は最小限に抑えたのではないかと思う。日本語としてもきちんと成立し、しっかりと意味の通る文章にしながら、もとのフィッツジェラルドの文の持つニュアンスやリズム感を再現しようだなんて、なんとまあ!神業……!

実際、村上氏は「訳者あとがき」で、これまでに邦訳されたグレート・ギャツビーはどうもフィッツジェラルドが書いた作品の世界観を再現しきれていないと感じていて、自分はその点に力を注いだと書いている。
そして、しっかりしていつつも流麗であるグレート・ギャツビーの文章の独特のリズム感を、なるべく崩さないようにした、とも。
村上先生、素人目線ですが、見事に達成されたのではないでしょうか。貴方の訳のおかげで私はグレート・ギャツビーの世界観を存分に味わい、泣きました。

また訳者あとがきには、村上氏のグレート・ギャツビーという作品への思い、フィッツジェラルドへの思い、翻訳作業への思いも綴られており、あとがきだけでもそこらへんの短編小説が軽く吹っ飛ぶような熱量を感じる。
おそらく村上氏にとって、思い入れのあるグレート・ギャツビーを少しでも理想通りに訳すことが、男のロマンなんだろう。あとがきに男のロマンを感じたのは初めてだ。
溢れんばかりの情熱と、精緻な作業を進める冷静さ、そして作品の空気を吸って吐き出すように世界観を再現する感性、そのすべてがぎゅっと詰まったあとがきだった。

そしてそれらは実際に『グレート・ギャツビー』本編の中でいかんなく発揮されている。
登場人物のイキイキとした会話、人柄をあらわすちょっとした描写、構造は複雑ながらも美しい音楽のような文章。随所に著者の才能と訳者の努力が光る。

3人の男のロマン
私の勝手な想像だが、この邦訳版『グレート・ギャツビー』には、3人の男のロマンがつまっている。
・一人目、ヒットをとばして食いつなぐための軽い短編ではなく、本格的長篇小説を書きたいという小説家としての情熱を作品にぶつけたフィッツジェラルド
・二人目、小説の中で哀しくも野心家で真っ直ぐなロマンチストとして生きた、ギャツビー
・三人目、愛してやまないその二人の男のロマンを日本の読者により忠実に届けたいと、心血を注いだ訳者、村上春樹


新年早々、素晴らしい作品に出会えて幸せだ。
2度、3度と読み返したい。

ときに村上春樹先生、『夜はやさし』を訳してはいただけませんでしょうか?




「#読み終わった本リスト」参加者のみなさんのアドベントカレンダーに、ひょんなことから参加させていただくことになりました。
http://www.adventar.org/calendars/933 

今年読んで印象に残った本をお互い紹介しましょう、という企画です。
私の担当が本日、12月9日。
今年も実用書から小説、漫画までいろいろ読みましたが、いざ選ぶとなると迷いますね。甲乙つけがたいものが沢山。
でも印象に残ったものを選んでみたら、不思議と共通点がみえました。

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まず、最近読んで泣けたものを一冊。
きらきらひかる (新潮文庫)
江國 香織
新潮社
1994-05-30



クリハラさん(@kurit3)から譲っていただきました.

主人公の夫婦は一見どこにでもいる「ふつう」の2人ですが、実はそれぞれ「脛に傷持つ者同士」の結婚だったという設定。妻の笑子は情緒不安定でアル中、夫の睦月は女性を愛せずボーイフレンド持ち。お互い結婚を急き立てられる状況にあったため、事情を承知のうえで結婚します。当然二人は男女の仲ではないものの、互いを大切に思っていて、唯一の望みはいまのこの生活が変わらず続くこと。
でも二人の願いもむなしく、それぞれの事情はお互いの両親の知るところになり、睦月の恋人をも巻き込んだ荒波に襲われます。


とにかくこの夫婦、不器用です。相手の幸せを祈りながらの行為が裏目に出て、かえって傷つけたり、自分自身を追いつめたり。それがもどかしくもあり、愛おしくもあり……。
笑子の情緒不安定は欠点でありながらも、感受性の強さ、必死さ、まっすぐさと常に表裏一体で、特に後半、睦月の幸せのために痛々しいほど奔走する姿に泣きました。
ストーリーは最終的に予想外の着地をしますが、読後「ふつう」ってなに?と静かに、でも激しくこちらの心を揺さぶってきます。江國香織さん独特の、静かで、なんだか今にも泣きだしそうなんだけど、言葉から温かい質感が伝わってくる文体がそれを増幅させる。
形はいびつかもしれない、でも彼らの純粋さと愛情(男女のものではないにしろ)を前にしたら、従来からの「ふつう」に当てはまっていることにどれほどの価値があるんだろう。ーー切なくも温かい物語から、そんなことを感じさせてくれる一冊。





次は、来年、蒼井優さん主演で映画化されるというこちら。

『ここは退屈迎えに来て』も記憶に新しい山内マリコさんは、ジャスコ化(いまではファスト風土化というらしい)した地方都市を舞台にした作品を描くのが上手な作家さん。


物語は2本の柱でできています。
一方は、20代前半の男性二人。アメリカのドキュメンタリーに触発され、閉塞感と何者にもなれない自分への鬱憤をはらすかのように、夜の街でグラフィティもどきを描きなぐってまわるように。そしてこの二人と行動をともにする女性一人。彼女もやるべきことを見出だせず、男性に対しても尊厳を守れない。
他方は、タイトルにもある安曇春子。実家暮らしのニートから脱出したものの、パワハラセクハラなんでもありの小さな会社でこきつかわれ、27歳と当時に肩叩き。なんとなく付き合ってるような関係だったはずの男は音信不通。無限だと思っていた自分の若さがあっという間に消費されてしまったことに気づき「消えてしまいたい」と心から思う。
そして本当にいなくなる。



どちらのエピソードにも、ファスト風土化された地方都市(いわゆる田舎、というより郊外)独特の空気が充満していて、実際のそれを知っているからこそ読んでいるとつらくなりました。

ずっと地元に残って愛着がある者と、一度外に出た者の意識の乖離(都会で挫折して戻ったがゆえの地元へのひねくれた視線が実にリアル)、集合場所といえばショッピングモール、暇潰しのパチンコ、衝動をもて余した若者の惰性のセックス。
女はそこそこで結婚して出産するのが当たり前という空気。
全体を覆うのは息苦しいほどの閉塞感です。

私が何年も前に違和感を覚えた、そしてもうそこには戻らないと決めた、あの閉塞感。


2つのエピソードは意外なところで絡み、ラストはちょっとファンタジック。著者がフェミニスト寄りなのか、そんな色の強い結末です。リアリティーには少々欠ける印象もあるものの、閉塞感をぶちやぶるような爽快感とメッセージ性は十分。
女たちよ、能動的に生きろ!しけた現実に縛られるな!男によって価値を決められるのではなく、自分の価値は自分で決めろ!

著者からの強烈なメッセージ。




……東京にいると、移住ブームだったり地方が新たなビジネスの舞台として注目されたりと、地方都市の魅力や可能性がフィーチャーされているのを見聞きします。しかし、実際に地方の若者がどれだけその希望や未来を肌で感じているかというと、すごく微妙。デジタルディバイドなんて地域間にはほぼ存在しないにもかかわらず。もちろん積極的にIターンUターンする人、意識を高く持ってアグレッシブに生きる若者や、地元になじんで楽しくやっている人も多くいます。でも、その陰で希望を抱けず、そもそも抱こうとも思わず、狭い空のした閉塞感を抱きながら生きてる……そんな若者の割合が意外に高い。その鬱屈したエネルギーを生産的に昇華させてほしいーー私が感じたこの作品のサブメッセージはそれです。


今年から、私は女性向けWebマガジンで記事を書かせていただいていますが、無意識に東京やそれに準ずる都会の女性限定の記事を書いてはいないか?と自省するきっかけになりました。自分がかつて暮らしたような「都会でない」土地に住む女性の心にも届いてほしいなと。 



最後に少し毛色の違うものを。





今年、30代二回目の誕生日を迎えまして。
お肌の曲がり角なんてもう何回曲がったか分かりませんし、曲がったらそこは崖だった、というリアルホラー体験も済ませました。代謝は下がるし、肌のツヤもなんだかなぁ……。
女性はどうしても、「歳を重ねる」ことについてはマイナスイメージと結びつけやすいもので、 巷ではアンチエイジングを謳う商品が並び、美魔女ブームもなんだかんだ批判はありつつも続いています。
でも、私はむやみやたらに若さに拘泥したくはないんですね。ずっと女でいたいけれど、年相応でいい。
たしかにハタチの女の子と比べて肌のハリは比較にもならないし、おっぱいもたるむし、なんか顔にちょこちょこシワも出来てます。 
でも勝負するのはそこじゃないぞ、と。小娘にはわからない人生の機微、円熟味、深み、いろんなものがまた女性の輝きを増す要素になるはず。40歳になったときには、30の頃よりまた女としてパワーアップしたと思いたい。


そんな考え方にしっくりくる美容法がつまっている本です。歳をとることを前向きにとらえて、基本的なケアをきちんとして、アラは適度に隠しながら年々深みとまろみのある女性になりましょ、というスタンス。
著者の神崎さんのセミナーを取材したことがありますが、女性としての自己演出法も異性の心の掴み方も熟知しつつ、中身は誰よりも男前!という芯の通った女性です。そんな彼女らしい一冊。
本の帯にもあるように「年をとるのは怖くない!」
これ全国の女性に呼びかけたいです。 


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こうして振り返ってみると、「生き方」「心」に関係していて、古い価値観や強迫観念から解放されるのがテーマ、というのが共通点でしょうか。
これは、私がこの一年考えてきたこととたしかに一致していて、「こうするのが普通」「かくあるべき」といった(特に女性の)生き方に対する正体不明の強迫観念から解放されたい、という思いが読書にも表れたのかなと感じます。
もちろんモラルや最低限の常識は必要。でも状況が許すなら、本来の自分がのびのびと生きられるように生きればいい。そして自分がそうするなら、他者のそれも尊重する。多様性を受け入れくだらない比較はしない。マウンティング根性なんてごみ箱に捨ててしまえ。そんなことを日々考えた一年だったと思います。


読書を切り口に今年を振り返るっていうのもいいですね。
来年の自分がどんな本を読み、どんなことを感じるのか。解放と模索から一歩前進しているのかーー書店へと足を運ぶ自分の姿を、期待と不安をないまぜにしながら思い浮かべています。




 

春画展に行きたい行きたいと思い続けて3ヶ月、その願望がようやく実現した。

「誰と行くか問題」は、春画展に興味のありそうな友達が見つからず、結局

夫と行く 

という無難な選択肢に落ち着いた。
週末は混雑がひどいと聞いていたので、夫の休暇中の平日にいざ!
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展覧会場の永青文庫に到着し、順路どおり4階スペースに向かうと、

なんじゃこりゃ!?
人がひしめき合っている……!
陳列ガラス沿いに列を作り、その進まなさ加減たるや、牛歩またはディ⚫ニーのアトラクション待ち行列。行列最後尾は部屋からはみ出る。

ちなみにこれ、平日17時の光景である。
一応この17時というのも考えた末の時間で、会社員の方はまだ来られないし、専業主婦の方はご飯を作る時間だし、リタイア済みシニア層はそろそろ帰宅してご飯の時間だし、てかそもそも1日空いてたらわざわざ寒い夕方に来ないだろうし、という読みのもと狙っていったのに、
ゴッホのひまわりでも来ましたか?レベルに混んでいるではないか。
(ちなみに大学生の行動は読めなさすぎるので、未知数のまま予想放棄)

春画、恐るべし。

おとなしくその牛歩行列に加わって鑑賞開始。

序盤は、まだ完全に心通じあっていない男女の探りあいの様子が描かれている。ちゃぶ台の下で足がふれあっていたり、ちょっと着物のなかに手を入れてみたりさりげない感じ。

が、見ている側は牛歩なのにもかかわらずなかなか作品の展開が速く、気がつけばあっという間にどっぷり春画ゾーンスタート。


予想以上に赤裸々な描写である。
モザイクをかけたくなるような所をドーンとクローズアップ、色鮮やかに表現していて、「こ、これは……」と一瞬戸惑う。
保健体育の教科書より生々しい。昔クラスメイトに騙されてブックオフで立読みした東京大学物語より生々しい。

でも何作品も見ていくうちにだんだんと慣れてくるし、絵師や時代ごとの作風の違い、設定やストーリー性に目がいって、あまり気にならなくなった。
絵画としても色彩が美しいものがたくさん。私が特に気に入ったのは、鳥文斎栄之の四季競艷図の中の一作だ。緑色の簾がなんとも情緒がある。


ーーただ、最後までひっかかったこと。

……立派すぎる。
何がとは言わない。
紳士・淑女のみなさまにおかれましてはお察しいただきたい。
だって腕より太い。顔より長い。
いくら遠近法とか無い画法だからと言われても、なんぼなんでもそれは……。
私の記憶の中のサンプル数はそんなに多くもないけど、極端に少なくもない……はず。でもどれだけ脳内画像検索をかけてもidentifyしない。
(あぁこのブログを絶対に親が読みませんように)

これは男の意地なのか?見栄なのか?
いや違う、夢か!
現代の恋愛ゲームの女性キャラが全員巨乳であるように。

まぁ単に春画なのでそこを強調したかった、という意図かもしれないが、なかなかの盛り具合である。対して女性の体はそんな盛られてないのが不思議だ。

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春画というのはポルノなのか、アートなのか」という議論がなされているようだが、今回実際に見て、「どっちでもいい。というか、どちらの要素も兼ね備えている。」と感じた。
今みたいに写真や映像があるわけじゃないので、春画は性教育のツールであり、面白おかしい娯楽読み物でもあり、性への欲求を刺激するものでもあり、芸術性を追求するものでもあったのだろう。

実際、「家庭の医学」的に臓器の説明がされている春画本、
享保の改革で春画が禁止されてからも、貸本屋がこっそり庶民に貸し歩いたというもの、
大名が贈呈用(!)に絵師に描かせた豪華なもの、
記憶があやふやで申し訳ないのだが、何らかの団体が新年の行事で配布したものまであった。

様々な階層の人々が、様々な用途で春画を手にしていたのだ。


もうひとつ印象的だったこと。
展示してOKと判断された作品ばかりだから、かもしれないが、
「性」に対する後ろ暗いイメージをあまり感じさせられなかった。
どちらかというと肯定的で、どこか洒落がきいている。セリフ付きの作品なんかは思わず笑ってしまうようなものが多く、ちょっと意外だった。暴力的描写は一切無い(展示されていないだけでどこかに存在はするのだろうが。)
日本人はあまり性に開放的なイメージは無いけれど、秘め事でありつつもおおらかに肯定すべき事柄として古来から扱われていたんだな~と、これは新鮮な発見だった。


日本史の資料集にもこういうのいっぱい載せればいいのに。
……授業にならないか。

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物販コーナーでは全展示品が掲載された図録が販売されていて、夫は「これすごいよ!4000円の価値あるよ!」と気に入っていたが、うーん、いらん。
一時間近くかけて山ほど見たから、もう、お腹いっぱいだよ……。
ちなみに春画が印刷されたTシャツやらクリアファイルやらエコバッグも売られていて、こんなにもエコバッグという響きが似合わないエコバッグもないというくらい、違和感の塊の逸品だった。

エロバッグの方が実物に忠実だと思う。


総じて見ごたえたっぷりの展覧会だった。  
日本美術が好きで性的描写が苦手でない方は、ぜひ足を運んでみてほしい。











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