アラサーライター吉原由梨の 「ようやく大人 まだまだ女」

フリーライター/コラムニスト、吉原由梨のブログです。 Webサイトを中心に執筆しています。 都内の大学法学部卒業後、 ITメーカーOL→ 研究機関秘書職→ 専業主婦→ フリーライター兼主婦 日々感じること、ふとしたことからの気づきを綴っています。恋愛と結婚を含む男女のパートナーシップ、人間関係、心身の健康、家庭と仕事、グルメや読書の話など。美味しいもの、マッサージ、ふなっしー大好き。 Twitter:@yuriyoshihara こちらもお気軽に。

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こころ

嵐が過ぎたら、秋がくる。

昨夜は神宮外苑花火をみて、新さんまや秋茄子、桃を食べた。なんだか夏と秋の交替の儀式みたいだと思った。

季節が夏から秋へ移る9月は、ちょっと特別な月だ。誕生日を迎えるから、そしてなんとなく毎年心の断捨離をしているような気がするから。
暑さと高気圧で思考能力がにぶって、テンションにまかせてあれやこれやと楽しもうとする夏。夜がやたら楽しい夏。「夏は夜」と書き記した清少納言と私はきっと気が合う。夏の終りにはなんとなく人生がゆるんで、ふくれてる。
誕生日を迎えて少しずつ風が涼しくなってくると、そんなふくれた日常を静かに見つめるようになる。「これは夏と一緒にさよなら」「これには出会えてよかった。ずっとよろしくね」1つ歳をとった自分にとっても大切か、ほんとに好きか、意識的にも無意識的にもひとつひとつやんわりと確かめていく。

そうしないと、詰め込みすぎたクローゼットや押し入れみたいに、風が通らなくなって大事なものがカビちゃうから。



今年の仲秋の名月は、誕生日の3日後らしい。木曜日。平日か。
静かにお月見でもしよう。さっき清少納言と気が合いそうだと書いたけど、ほんとうは私は「をかし」より「あはれ」が心にしみ入る。

その頃も、いま大好きと思っている対象を、大好きと思ってるのかな。
月がきれいだね、って32歳なりたての自分に言ってあげられるかなぁ。


いまは嵐の前触れなのか、私の心も落ち着かないよ。


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暑すぎる東京を抜け出して、避暑地の代表・軽井沢へ行ってきました。
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(部屋からの眺め)

夏休みが急に決まって、出発4日前に行き先決定&ホテル予約。ハイシーズンなので、楽天トラベルでも「あとひと部屋」のオンパレード。やれやれ、部屋とれてよかった……。

結論からいうと、たった一泊2日だったけど、すごく満足度の高い旅行でした。風立ちぬのモデルにもなった老舗ホテル、木々が生い茂る小径をサイクリング、商店街食べ歩き、恒例の大人二人で迷子、地場野菜たっぷりのフレンチ、教会で心あらわれる、ホテルのバーで酔っ払う。あ、「テニスコートの出会い」で有名なテニスコートも見てきましたよ(ミーハー)
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(お野菜のオードブル)

数日間は、戦利品のパンやワイン、ピクルス、チーズを味わいながら、歩きすぎて足裏にできた水ぶくれの経過を見守ろうと思います。マジで痛い。

私の鬼門
さて、タイトルに書いた「遠くへ行けなくても」。
私は、ここ10年以上海外旅行をしていません。結婚してもうじき5年になりますが、夫との旅行は、結婚前も含めて1番遠出したのがお互いの実家(香川、山口)、あとは京都、名古屋、熱海、そして今回の軽井沢。
まわりがヨーロッパやらアメリカやらじゃんじゃんいくなか、近場ばっかりです。

これは、ひとえに私の事情によるもので。
私は移動が苦手です。苦手と言っても程度がありますけど、薬の力を借りても上に挙げた新幹線で1時間ちょっと、がなんとかギリギリ。。というレベル。乗り物に酔う、とかそういうんじゃなくて、言葉では表現し尽くせない恐怖と体の拒否反応が起こります。持病のせいです。

日常生活でも、実は移動が得意ではありません。山手線半周は、私にとって大冒険。体調が優れないときは、地下鉄二駅でも負担になります。

付き合いの長い近い友人はよく分かってくれてて、集まるときはさりげなく「由梨、この場所大丈夫?遠い?」とか、「行きやすいところでオススメある?」とか配慮してくれるので、ほんとうにありがたい。ありがたく甘えてます。

そんな私なので、私の出かける先はほんと限られてしまっていて。

飛行機必須の場所、却下。
電車で2時間〜3時間、却下。
駅から車で1時間、車酔いするから、却下。
え、飲み会日本橋? …やめとく。

こうして行き先は狭まっていく。

夫や友人にゴメンネ、という気持ちと、婚家にも実家にもほとんど顔を出してないだめ嫁だなぁという自覚が苦しい。義両親が理解してくれてるのが救いですが。仕事でも、出張や長距離移動をともなう取材は引き受けられません。

冗談抜きで、1番ほしいものはどこでもドアです。


そのことで気が狂いそうなほど悔しいとき、なんで私がこんな目にと思うとき、ちょっとそこまでの外出で異常に疲れてしまうとき、自分の運命を呪いたくなるけれど、もう10年たったいま、その中で私ができること、楽しめることを探すしかないよな……と静かに境遇を受け入れつつあります。もちろん、治りたいのが大前提だけど。

遠くにいけなくても、家の近くでも会える人はいるし、美味しいお店はたくさんある。
遠くに旅行にいければ、そりゃ楽しいし視野は広がるし異文化に触れられるんだろうけど、近くの旅行だって気分転換は十分できる。現に今回の軽井沢でも、19時半に予約してたレストランに徒歩で向かってたら信じられないくらいどっぷり暗くなって、「あぁ、そっか、夜って本来こんなに暗いんだ」と驚きました。東京の7時半なんて、煌々と明るいからすっかり忘れてた。他にも、ハイシーズンなのに17時や18時にシャッターおろしてしまう、商売っ気あるんだかないんだかわからない商店街を通りながら、「なんとなくここは、自然のリズムと一緒に過ごす土地なのかな」と思う場面もありました。朝涼しいうちに気持ちよく起きて、日中は活動して、日が暮れたら家庭に戻って休む。体内時計の狂った都会生活で忘れた感覚が、そこにはあるなと。 
些細な気づきでも、日常生活の感覚を一瞬リセットするには、意外と十分です。

インドやブラジルに行けば、そりゃ価値観のコペルニクス的転回があるかもしれない。でも、無理なんだから仕方ない。私は私の動ける範囲で価値観の硬直化を防いで、楽しんで、そのぶん本や映画で想像力をたくましくしよう、解像度をあげよう、というところに今は着地しています。アクセスがよく、情報も物も手に入りやすい都心に住んでいるのも、自分の特性を踏まえた対策の一つです。

あなたの鬼門は、なんですか
私にとっての鬼門が「移動」であるように、おそらく誰にでも鬼門はあって、「くっ…。これさえなければ…生きやすいのに!」っていうもどかしさを抱いているのでは、と思います。

よほど悟った人でない限り簡単に割り切ることは無理ですが、自分の手の届く範囲、できる範囲の中で、自分の「快」を得られる手段を増やしていくのが、最善の策ではないでしょうか。その過程で、多少周りの理解や協力を得るのは、べつに自己中でもなんでもないです。勉強が得意な人・不得手な人、運動が得意な人・不得手な人、いろいろな得手・不得手があるように、私の鬼門もあなたの鬼門もひとつの個性。それを「いやだ」とか「受け入れられない」という人とは、悲しいけれどご縁がなかったか、人間としての相性が悪かったか……。拘泥するより、理解してくれる人を大切にするほうが、結果的に幸せになれる気がします。


暑さで脳ミソがトケぎみで、まとまりが悪い感じですね。
つまり、無いものをねだる気持ちは人間として当然の心の動きだけれど、それよりも自分がもってるもの、持ち得る範囲で感じられる「快」をいっぱいコレクションしていきたいねって話です。

すごい当たり前のこといってるな。でも最近改めてそんなことを考えてます。
暑さ厳しい折、御自愛くださいませ!
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わけあって、ここのところ自分の恋愛遍歴を思い返している。
とはいっても、私は決して「恋多き女」じゃないし、ましてや「モテ娘」でも「魔性の女」でもなかったのでそんな山ほど思い返すネタがあるわけじゃない。でも、なんかいちいち濃い。いや、濃いですめばまだ良くて、どっかしら変……。

その証拠に、結婚披露宴のスピーチを大学時代の友人3人に頼んだら、集まって内容を練ったとき、「ちょっと笑えるネタもいれたいよねー」とオモシロエピソードを大学入学時まで遡って考えてくれたらしいのだけど、出てくるネタがどれもこれも結婚披露宴で喋るネタにはまずいだろ、という代物ばかりだったらしい。結局、「ゆりは、元ヤクルトの古田敦也さんが大好きなのに、『野球って、バット振ったあと右と左どっちに走るんだっけ?』と言い出すボケボケなところもあります」とそつのない話にしてくれた。
後日、お礼を言ったら、「だって話せるエピソードほんとなくて!!!笑」と爆笑しながら非難轟々で、ほんと彼女たちの良識に感謝だわ…といまでも足を向けて寝られない。

**

恋愛なんて心のいっちばんやわらかい部分でするもので、いちばん無防備な自分が見えてしまうものだと思ってるので、もしかしたらみんなどっかしら変なエピソードばかりなのかもしれない。
(カッコいい恋愛だけしてる人なんて世の中どのくらいいるんだろう……?) 
それに一応私にも、ドラマみたいな感動的な体験とか、甘やかな思い出とか、心も体も引きちぎれるくらいつらい思いとか、王道(?)っぽい経験はある。でも、やっぱり、、どっかしら変。

これがなんでなのかがよく分からなくて、色々考えていたら、まず気づいたのは「私がおもしろエピソード作ってるんじゃなくて、殿方がつくってるんだ」。これ、責任転嫁だったらまずいと思って友達に確認しました(迷惑)。そしたら、「うん、そうだね(笑) なんか面白い人がどんどん寄ってくるよね」とのこと。やはり。
まぁでもそういう人を引き寄せてしまう私も、きっと変なんだと思うけど。

あともう一つ気づいたのが、私がこれまで恋愛したお相手は9割がた世にいう「草食系男子」。顔が猛烈に好みな肉食系男子に無性に惹かれたこともあるけれど、結局深く好きになって付き合うのは草食系男子が多かった。逆もしかりで、肉食系男子がデートに誘ってくれて何回かご飯食べたり映画を観たりしてみても、付き合うまではいたらないことがほとんど。
つまり私が好きになるのは、あんまり不器用過ぎると困るけどどこか「うぶさ」の残る男性で、同時に私に惹かれてくれる人もそういう男性だったので、恋愛シーンがどうにもこなれてない感じになる。
多分それが面白エピソードを量産してしまう最大の要因だ!ということに私の中ではなっています。

まぁリアルに変な人もいたんですけどね……ほんとに。(ヒマワリの花束をプレゼントしながら「二人の夏の始まりってことで」とナルシステイックに言われた時のゾワッと感は忘れられない。念のために断っておくと付き合ってもいなかった。)

でも、変なエピソードを量産してしまう自分の過去の恋愛を否定する気にはならなくて、相手の不器用さも自分のそれも含めて愛おしいと思っている。まぁそういう多少個性の強い相手を選んだの自分だし。

手練手管に長けたイケメンは「一夜の夢をありがとう」でよくて(贅沢言えば三夜くらいかな)、心があたたかくて○○にあふれてて○○家で○が低くてちょっと○○○な人が好き、っていう基本的なスタンスは、古田敦也さんを好きになった高校時代からずっと首尾一貫してるんだな好みって怖いなと思う今日この頃です。
(最初は伏字なしで書いてたんですが、自分の異性の好みを文字化して全世界にさらすって恥ずかしすぎるな、と思ってこうしましたスミマセン……)


ちなみに、誰も興味ないと思いますが、私の「結婚してほしい有名人」は、古田敦也さん→(大空位時代)→堺雅人さん→ふなっしー です。
ふなっしー、人じゃなくって妖精ですけどね。戸籍がないんで結婚できないんですけどね。





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発端はめちゃくちゃしょうもないことだけど、「えっ?」と思うことがあった。
なぜか私が反射的に謝ってしまって、よくよく考えたら私が謝るのはおかしくない? とふつふつと疑問とイラッと感がわいてくる。

ここでどうするか

1 ぐっと飲み込む。すなわちスルーする。
2 「おかしいよね」と相手に伝える。


多分、世渡り上手な人は1を選ぶと思います。波風たたないし、まぁとりあえずこれ以上空気悪くならない。
でも私は2を選んでしまった。
バカめ。バカ正直の世渡り下手。

2を選んだのは、言わなきゃ気持ちがおさまらないとかそういうことではなく、言えばわかってくれると思ったから。

言ってもわからないと思う人、どうでもいい人なら気力をさくだけアホらしいので、笑顔で無言でスルーします。つまり、迷わず1。

でも言えばわかってくれると思う人、関係を大事にしたいと思う相手には、小さい引っかかりを残したくないし同じようなことを繰り返したくないから、言うべきことは言う。2を選ぶ。
あ、もちろん罵詈雑言とかじゃなく、できるだけ淡々と。
それでムカつかれたり、「こいつめんどくせーもう知らねー」と思われたりしたら最悪だけど。めちゃくちゃヘコむけど。


ときどき私は性善説に立ち過ぎるのかなと思うことがあります。
でも、少数の「信じられる人」は信じたいなと、いまだにそこから離れられずにいます。
今までそれで何回か裏切られましたけどねー。ははは。


重い女です、ええ。
軽くなりたいね!フワフワと!無理だけど!


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主体性と柔軟性のバランスは最近のとても大きな課題でして。

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30になった辺りから「主体的に生きたい」という思いが強くなりました。
おそらくそれは、“褒められて伸びる出来の良い長女”だった10代、“レールにしがみつくのに必死”だった20代の反動のようなもので、家庭環境・予期せぬ病・自分自身を縛る考え方からそろそろ脱皮して、自由に好きに強く生きたいという感情が頭をもたげてきたのだろうと思います。(もちろん人様に迷惑をかけない範囲内で)

他方で私は、「人の意見に耳を傾けること」に非常に重きを置いています。自分の目はたった2つ、視点は1つ。どんなに本を読んでいても、視野を広く持とうとしていても、どうしたって限界がある。その狭い“自分”の範囲内で凝り固まるには私は賢くなさすぎるし、経験も知識もひらめき力も気づく力も全然足りません。しかも私の考えなんて世の中に星の数ほどある考え方の中の1つに過ぎないわけで、何かをきっかけに、目からウロコが落ちて120度くらい考え方が変わることだってあり得ます。

だから、周りの知恵を借りたい。思わぬところにヒントがあるかもしれない。そのためには柔軟でいたい。
最終的にそれを取り入れるかは別として、入り口の段階で絶対に門前払いはしない。素直に耳を傾けて咀嚼することは絶対です。その過程で違うと思えば吐き出せばいい。
そしてその姿勢は、主体性とはなんら矛盾しないと思っています。

でも、そう思わない人もいるよう。

三人寄れば文殊の知恵といいますよね。仕事でもプライベートでも何かについて考えようという場面で、私一人のちっぽけな脳みそで考えるよりも、脳みそが2つか3つになればいい考えが浮かぶかもしれない。自分の意見はまだ固まっていないからひとまず相手の意見やアイディアを聞いてみよう、そして相手の話のアウトラインが見えるまでは腰を折らないよう聴くことに注力していようとしたとき、それを「主体性がない」と言われると、「はぁ!? 柔軟でフラットといってよ。『私の考えが絶対』と言わんばかりに食い気味に反論して、鼻息荒く進める中途半端なインテリ女よりましでしょ、ボケっ」ってぐらい毒づきたくなるんですが(お目汚しすみません)、それと並行してその意見を真面目に受けて「私、主体性ないかなぁ」と自己スクリーニングモードに入る自分が、ちょっと悲しかったりするわけです。
もうサガですね。 

さっきの場面に戻ると、主体性が無いというのは、周りの意見を鵜呑みにして、咀嚼も反芻もせずそのまま骨や肉にしてしまうこと、と私は思っています。
あらゆる物事や人から学ぼう、吸収しようという姿勢を「主体性がない」で片付けてしまう人は、主体性という名の旗のもとに謙虚さを忘れてしまったのかな、と。

年齢を重ねれば重ねるほど、ダメ出しをしてくれる人は一般的に減ります。だからといってズルズルと、自分を客観視できない偏屈な年寄りにはなりたくない。いつも“無知の知”を忘れずに自分の考えを相対化したい、それでいて縮こまらずに自分の道を生きたい。その塩梅がいい感じな人間でありたいなぁと日々模索しています。

主体性と柔軟性のバランス、皆さんはどうとってるんでしょうか。
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