結婚5年目、31歳。事情があってうちには子供がいない。夫婦ともそれを不幸なこととはとらえてなくて、「一生二人でも十分楽しい」と納得している。というか、付き合って結婚を決めるまでの二週間で、そこの価値観は擦り合わせている。どちらの実家の両親も、事情を解してか特にせっついてこない。

ただ、外からの善意の刺激は避けられない。病院、大学のOBOG会、買い物先、とにかくありとあるゆる場所で投げかけられる「お子さんは?」のせりふ。特に上の世代の方が多い。そういわれるたび、一方では「ほっとけよ」と内心毒づきながら、他方でなにか自分がものすごく悪いことでもしているのかという思いにかられる。割りきっているはずの心が揺れる。
いちいち私に言わないだけで、夫もいろんなところで言われてるんだろう。

相手が「傷つけてやろう」と悪意でいってるなら楽だ。でも善意だ。もしくは単なる世間話。当たり前のように、もしくはよかれと思ってにこやかに言われると、反論したり相手を憎んでやり過ごしたりもできず、もやもやするはめになる。
これまでは「まぁ、授かり物ですからそのうち……」と言っていたが、最近は二度と言われないように「うーん、うちはずっと二人かもしれないです」と言うようにしている。

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先日、中学からの親友の結婚式に出席した。
素晴らしい時間だった。
この日のために大幅なダイエットに成功した友人は幸せオーラをふりまき、これまでで一番綺麗だった。私はバージンロードを歩く友人の姿にあっさり涙腺が崩壊し、そのあとは何回うるっとしたか覚えてない。昔から知ってるお母様は相変わらず穏やかで、ずっと涙ぐみながら娘を見守り、お父様と一緒に私たち友人の席にいらして「いつまでも娘をよろしくお願いします」とご挨拶してくださった。

披露宴は職場の方々が多かったので、新婦高校友人は私を含めて3人。小児循環器科の医師として働く独身の友人、第2子妊娠中の専業主婦の友人、私。
それぞれ日頃の生活は全然違えど、長年の友人だ、話に花が咲く。特に医師の友人の生活はすさまじく、強い使命感をもって仕事にあたる凛々しさが随所に感じられた。

いい時間だった。披露宴自体も素晴らしく、お料理、会場装花、盛り上がり具合、余興やスピーチのクオリティ、どれをとっても存分に上質な祝宴だったと思う。

……思いもよらない心の揺れが生じたのは終盤だった。
花束贈呈がおわり、両家を代表して新郎のお父様がスピーチなさった。
「……今日結婚したこの新しい夫婦に、多くのことは望みません。ただただふつうに家庭を築き、ふつうに子供を育ててほしい。自分の人生を振り返って、それがどんなに難しいことかがわかります。……」

“ふつうに子供を育ててほしい”

このくだりを聞いて、なんともいえない感情が私のなかを駆け巡った。
とっさに命を宿している隣の友人のお腹を見、毎日多くの子供の命を救う友人の顔を見た。

私に向けられた言葉ではないと百も承知だ。でも幸せな時間に心の鎧をすべてはずしてしまっていた私には、思いの外ずっしりきた。
私の子宮は、一生胎児の家となることはないのか、私は一生我が子を抱くことはないのか、そして夫と私のDNAを継ぐ我が子を夫に抱かせてあげられないのか。両親に、孫をみせられないのか。
“ふつうに”子供を産み育てる経験をしないまま歳をとったら、後悔するのだろうか。


新郎父を批判したいわけではない。「大層なことを成し遂げてほしいのではなく、身近な当たり前の幸せを大切にしてほしい」という趣旨のあたたかいスピーチだった。自慢の息子が結婚したら、次は孫をと願うのは自然な感情だと思う。
腹が立ったわけでもない。
単純に、私にはいろんな意味で響いたというだけ。

混乱した私の心のなかは、退場していく主役二人の笑顔でいくらか落ち着きを取り戻した。
1列席者の機微なんてどうでもいいのだ。
今日はこの二人の日だ。
ただただ、そういう「ふつう」を望むご家庭と縁を結んだ彼女が、順調に子宝に恵まれますようにとだけ心から願って、複雑な感情は忘れてしまおうと思う。

ご結婚、おめでとう。
19年来の友より。


追伸) 結婚してからが本番。