オリンピックのエンブレム問題に端を発し、マスコミでは来る日も来る日も「パクり疑惑騒動」が報じられている。
佐野氏のパクり疑惑のどこまでが黒でどこからが白なのかは、本人のみぞ知るなので私がここで言及するつもりはないが、「パクり」といわれる行為については日々感じていることがある。

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半年前にライターを始めて以来、私の頭は来る日も来る日もネタを探している。
たまに夢でも。
そして「まとまらない!」ってガバッと起きることも(汗)

一方で、「人に読んでもらう文章を書く」ということを一から学びたくて、魅力ある諸先輩方のブログやWebメディアの記事、紙媒体の記事にも以前より広く目を通すようになった。
以前はただぼけーっと読んでいたが、いまは言葉選びや文章の運び方、構成の仕方、情報の密度、「この書き手の方は誰に何をどう伝えたくて書いたんだろう」など、書き手の思考回路を意識しながら読むことも増えた。


それがパクり疑惑騒動とどうリンクするのかと疑問に思われるかもしれないが、
触れる文章が増えると、「意識なく」パクってしまう、似てしまうのが怖いなと、ここ半年ずっと感じてきたのだ。

自分では完全に自分の脳内もしくは日常のなかで生まれたネタ、切り口、文章だと思って書いていても、いつかどこかで目にした文章が脳のどこかにうっすら残っていて、知らないうちになぞらえていたらどうしよう、という不安がふと頭をよぎる。
あまりにも心配なときは、記事の完成後に、同じテーマで書かれた記事を検索して似通ったものがないか確認してしまうくらいだ。

もちろん、読者の引き込み方、文章の組み立て方など技術的な面で他の書き手さんの文章を参考にすることはある。(そういったスキルを紹介してくださる書き手さんもいるくらいだ)
それに、テーマが同じなら、内容に少し共通点があるくらいは仕方がないと思っている。(たとえば「結婚披露宴での服装マナーについて」などある程度「正解」があるテーマの場合は特にそうだ。)
でも、導入、筋立て、内容、結論、どれも似ているとなると故意でなくても「パクり」と判断されるだろう。そうならないための自衛策…。
小心者なのだ(笑)

最近では、タイトルをみて、自分が近々書こうとぼんやりとでも考えているテーマに関わりそうな記事は、敢えて読まない。「知らない」以上のパクり防止策はないと思うから。
そして自分の原稿の完成後に読んで、「なるほど~そういう視点もあったか」と悔しがったり楽しんだりしている。

また、誰かのブログにインスパイアされて、同じテーマで自分の意見を書きたいと思い、なおかつ内容が多少かぶってしまいそうな場合は筆者の方に連絡して許可をいただく。「引用元を明記しますので、かれこれこういう風に書いても構いませんか」と。意外とOKしてくださるものだ。「自分の文章が広く読んでもらえるのでむしろ喜んで」と言ってくださった方もいる。


やりすぎだと思われる方もいるかしれないが、世の中には山のように文章が溢れていて、そして「似ている」「似ていない」の受け取り方は読み手によって様々だ。
用心するに越したことはない。
自分の書いた文章を、堂々と世の中に出したい

半年の新人が語るのも甚だおこがましいが、何かを創っている人間にとって根も葉もない「パクり疑惑」をかけられるのはかなりの侮辱だ。仕事人としてもそうだが、人間としての尊厳を傷つけられた気分にさえなりそうだと思う。


もともと私が持つ小心者ゆえの防衛本能は、
今回の一連の報道によって一層研ぎ澄まされるだろう。
意識的模倣はいうまでもなく、しない。もうこれは職業倫理とかいう以前の問題だ。どうしても書けなくて弱い心が自分を誘惑することが万が一あれば、しばらく書くことをやめる。
そして、一番こわい「無意識の模倣」にも用心しないと、と改めて身が引き締まる思いだ。



それにしても、「痛くもない腹を探られる」という言葉がある。佐野氏の迅速な会見をみたときはその手の疑惑かと思った。それを晴らそうとしているのかと。が、あとからあとから出てくる疑惑をみていると、痛いところは多少なりともありそうな気配である。


痛くもないのに自覚のない病気があったらどうしようとブライダルチェックよろしく検索までしてしまう小心者の私と、自覚する痛いところがおそらくあるのに会見までしてしまう彼。

…人間って多様性に溢れているなぁと、そんなことまで感じさせられる今日この頃である。

もし、痛みの裏に膿があるなら、ごっそり出してしまってほしい。