主体性と柔軟性のバランスは最近のとても大きな課題でして。

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30になった辺りから「主体的に生きたい」という思いが強くなりました。
おそらくそれは、“褒められて伸びる出来の良い長女”だった10代、“レールにしがみつくのに必死”だった20代の反動のようなもので、家庭環境・予期せぬ病・自分自身を縛る考え方からそろそろ脱皮して、自由に好きに強く生きたいという感情が頭をもたげてきたのだろうと思います。(もちろん人様に迷惑をかけない範囲内で)

他方で私は、「人の意見に耳を傾けること」に非常に重きを置いています。自分の目はたった2つ、視点は1つ。どんなに本を読んでいても、視野を広く持とうとしていても、どうしたって限界がある。その狭い“自分”の範囲内で凝り固まるには私は賢くなさすぎるし、経験も知識もひらめき力も気づく力も全然足りません。しかも私の考えなんて世の中に星の数ほどある考え方の中の1つに過ぎないわけで、何かをきっかけに、目からウロコが落ちて120度くらい考え方が変わることだってあり得ます。

だから、周りの知恵を借りたい。思わぬところにヒントがあるかもしれない。そのためには柔軟でいたい。
最終的にそれを取り入れるかは別として、入り口の段階で絶対に門前払いはしない。素直に耳を傾けて咀嚼することは絶対です。その過程で違うと思えば吐き出せばいい。
そしてその姿勢は、主体性とはなんら矛盾しないと思っています。

でも、そう思わない人もいるよう。

三人寄れば文殊の知恵といいますよね。仕事でもプライベートでも何かについて考えようという場面で、私一人のちっぽけな脳みそで考えるよりも、脳みそが2つか3つになればいい考えが浮かぶかもしれない。自分の意見はまだ固まっていないからひとまず相手の意見やアイディアを聞いてみよう、そして相手の話のアウトラインが見えるまでは腰を折らないよう聴くことに注力していようとしたとき、それを「主体性がない」と言われると、「はぁ!? 柔軟でフラットといってよ。『私の考えが絶対』と言わんばかりに食い気味に反論して、鼻息荒く進める中途半端なインテリ女よりましでしょ、ボケっ」ってぐらい毒づきたくなるんですが(お目汚しすみません)、それと並行してその意見を真面目に受けて「私、主体性ないかなぁ」と自己スクリーニングモードに入る自分が、ちょっと悲しかったりするわけです。
もうサガですね。 

さっきの場面に戻ると、主体性が無いというのは、周りの意見を鵜呑みにして、咀嚼も反芻もせずそのまま骨や肉にしてしまうこと、と私は思っています。
あらゆる物事や人から学ぼう、吸収しようという姿勢を「主体性がない」で片付けてしまう人は、主体性という名の旗のもとに謙虚さを忘れてしまったのかな、と。

年齢を重ねれば重ねるほど、ダメ出しをしてくれる人は一般的に減ります。だからといってズルズルと、自分を客観視できない偏屈な年寄りにはなりたくない。いつも“無知の知”を忘れずに自分の考えを相対化したい、それでいて縮こまらずに自分の道を生きたい。その塩梅がいい感じな人間でありたいなぁと日々模索しています。

主体性と柔軟性のバランス、皆さんはどうとってるんでしょうか。