アラサーライター吉原由梨の 「ようやく大人 まだまだ女」

フリーライター/コラムニスト、吉原由梨のブログです。 Webサイトを中心に執筆しています。 都内の大学法学部卒業後、 ITメーカーOL→ 研究機関秘書職→ 専業主婦→ フリーライター兼主婦 日々感じること、ふとしたことからの気づきを綴っています。恋愛と結婚を含む男女のパートナーシップ、人間関係、心身の健康、家庭と仕事、グルメや読書の話など。美味しいもの、マッサージ、ふなっしー大好き。 Twitter:@yuriyoshihara こちらもお気軽に。

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人間関係

発端はめちゃくちゃしょうもないことだけど、「えっ?」と思うことがあった。
なぜか私が反射的に謝ってしまって、よくよく考えたら私が謝るのはおかしくない? とふつふつと疑問とイラッと感がわいてくる。

ここでどうするか

1 ぐっと飲み込む。すなわちスルーする。
2 「おかしいよね」と相手に伝える。


多分、世渡り上手な人は1を選ぶと思います。波風たたないし、まぁとりあえずこれ以上空気悪くならない。
でも私は2を選んでしまった。
バカめ。バカ正直の世渡り下手。

2を選んだのは、言わなきゃ気持ちがおさまらないとかそういうことではなく、言えばわかってくれると思ったから。

言ってもわからないと思う人、どうでもいい人なら気力をさくだけアホらしいので、笑顔で無言でスルーします。つまり、迷わず1。

でも言えばわかってくれると思う人、関係を大事にしたいと思う相手には、小さい引っかかりを残したくないし同じようなことを繰り返したくないから、言うべきことは言う。2を選ぶ。
あ、もちろん罵詈雑言とかじゃなく、できるだけ淡々と。
それでムカつかれたり、「こいつめんどくせーもう知らねー」と思われたりしたら最悪だけど。めちゃくちゃヘコむけど。


ときどき私は性善説に立ち過ぎるのかなと思うことがあります。
でも、少数の「信じられる人」は信じたいなと、いまだにそこから離れられずにいます。
今までそれで何回か裏切られましたけどねー。ははは。


重い女です、ええ。
軽くなりたいね!フワフワと!無理だけど!


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先日、誕生日を迎えました。31歳になりました。

小さい頃は家に友達を招いてお誕生会を開いたり、家族でケーキを食べたりしたものですが、
成長するにつれてそれも次第にあっさりしたものになり、
大学時代はいつも前期試験の最中で誕生日なぞどうでもよく、
働き始めるともはやただのありふれた一日です。

今年は運よく、誕生日が週末。
アラサーの誕生日の何がめでたいのかという気もしますが、しっかり誕生日気分を味わうことにしました。

といっても、食事に行くくらいで特別なことをするわけではないのですが、なんとなく節目を気持ちよく迎えたくて、前日には家中を掃除し、原稿も提出し、頭の中の「あれやってないぞリスト」を片っ端から片付けました。



◇◇◇◇◇新しい世界に足を踏み入れた30歳◇◇◇


すっきりした気持ちで30歳を振り返ると、あっという間だったなと思うと同時に新しい世界が開けた年でもありました。
私は数年間、完全な専業主婦として暮らしてきましたが、30という年齢にいろいろと考えるところがあり様々な可能性をさぐっていたところ、webで記事を書くという思ってもみなかった道に足を踏み入れることになり、幸いいまも続けさせていただいています。

専業主婦がいやな訳ではないのです。体調に少々難のある私はいまフルタイムの仕事を持つのはハードですし、独身時代の仕事に疲れていた私に専業主婦という選択肢を提示してくれた夫に感謝しています。
でも、主婦業だけでなく何かをさらに生産したくなったというか、ありきたりですが社会との接点が欲しくなりました。
またあと10年経てば40です。そのとき「30代、いったい私は何をやっていたんだ?」と思いたくない、と強く感じました。子供がいれば間違いなくその答えは「子育て」でしょうが、我が家には子供がいません。となると、何か勉強するか、働くか…と考えるにいたったのです。

誤解の無いように付け加えますが、専業主婦が何も生産しないという意味では決してありません。家族のために家を整え、料理をし、家計を管理し、家の一切を取り仕切る。非常に価値のある仕事だと思います。休みもありません。
ただ単に、私が昔から欲張りな性格で、夫婦二人ぶんの家事をして余る時間を、もっと生産的に使いたい、精神の充足につながりそれが家計をたすけられれば尚よし、と思ったにすぎません。


そんな経緯で始めた「書く」仕事は、ことのほか面白く、脳のこれまで眠っていた部分を刺激してくれます。
自分の書いた文章をネットを通して1万人以上の人が読むという事実に震えたこともありましたが、「社会との接点」という当初の目的に敵っていると思います。



◇◇◇◇◇新しい一年の課題◇◇◇◇


こうして得られた有り難い仕事を、はあちゅうさんの言葉を借りればどう「進化と深化」させていくかが、31の課題でしょうか。

あと精神年齢を生物学的年齢に追い付かせること。

見た目年齢を進行させないこと。(切実)

そして、友人関係を大切にすること。

この歳になると友人それぞれ皆生活がまちまちで、女性は特に仕事、家事、育児、介護、どの組み合わせをこなしているかでそれぞれ興味も事情も変わってきます。色んなパターンの女性の見解を見聞きするとやはり違う立場だと理解し合うのが難しかったり、となりの芝生が青く見えたりするものだなと難しさも感じますが、お互いピリピリしたり疎遠になったりするのではなく「女」という大きい括りで想像力と寛容さをもって助け合えればいいのになぁなんて、そんなことを感じるのです。
幸い、それが叶っている友人が(多くはないですが)いるので、彼女らとの繋がりを大切にすることでしょうか。


最後にひとつ、簡単に人を信用しない(笑) 
物騒ですが、仕事をするようになり、Twitterもはじめて、リアルでもネットでも世界が広がれば接する人の数も増えます。私は基本性善説ですし人間関係は「良識」と「信頼」に基づくと信じていますが、世の中そんな人ばかりじゃないよなと改めて横っ面をはたかれるような体験が数件ありました。
そこまで大袈裟ではなくても、プロトコルの違う人間は山ほどいるのだと。
頭で分かっているのと、実際に経験するのとでは随分違いますからね。いい薬です。もういい大人なので、世の中には有象無象が溢れていることを肝に命じます。


穏やかに、(日々を丁寧に、心穏やかに)
健やかに、(健康第一)
しなやかに、(いやな人はかわす、純粋に傷つかない)
美しく、(内面も、できれば外見も)



そんな31歳の年輪をしっかり刻もうと思っております。


それでは、今夜はこの辺で♡



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最近プライベートで物凄く嫌なことがあった。
詳しく書くとややこしくなるのだが、端的にいうと信頼していた友人が理由もわからず去っていった。
私はあまり交遊関係を広く広く開拓していく方ではない。社交的ではあるし知り合いが増えるのは好きだが、本当に信頼できる心許せる友人はそう多くなくていいと思っている。そのぶん、そうなれそうな相手を見つけたときの喜びは大きい。

件の友人もその一人、だと思った。
知り合ってからの期間は短いものの、理解と共感を示してくれ、私も信頼をおいていた。それが最近、妙によそよそしいというか、消極的というか、距離をおかれていると感じていたのだ。はっきり拒絶されたわけではない。だが、以前とは明らかに違うのである。

日を追うごとにその実感は強まった。
キライになったならそういってくれればいい。
「もうあなたに興味がない」「気が合うと思ったけど見込み違いだった」「気にさわることがあった」
そう言われてしまえばこちらも諦めがつく。
だが、そうも言わないのだ。拒絶せず、かといって受け入れもせず、関心も示さず、ただただ静かに沈黙をもって遠ざける。
空気を読め、察しろということなのかもしれない。大人の付き合いとはそういうものなのかもしれない。でも私は納得がいかないし、純粋に悲しかった。
「私が手を離したらこの関係は終わるんだろうな」という予感が確信になっていく過程は、じりじりと真綿で首を絞められているようで、やたらと冗長な拷問のようだ。

思うに、私が幼いのであろう。空気を読むのも相手の心情を察するのも苦手ではないが、心を許した相手の前だとどうも心のガードを取っ払いすぎる。無垢な少女のようになんの用心もない裸の心で接してしまうため、不測の事態に戸惑ってしまう。相手の感情の変化に必要以上に過敏になり自分の感情まで不安定になる。
今回も、この件で限界に達していたとき、全く関係のない知人にとんだとばっちりをくわせてしまった。

それでもこの歳までなんとかやってこられたのは、相手の見定めを間違えなかったからだった。丸裸の心で接していても大丈夫という絶対的安心感のおける相手を、ほぼ直感で見極めてきた。周りからも「その洞察力と直感力はすごい」と誉められたし、自分でも少しばかり自信があった。

しかし今回は外れたのだろう。
あれやこれやと原因を考えても思考が空転するばかり。見る目がなかった、と自分を納得させている最中である。
少しばかり用心深くなれという天からの忠告かもしれない。


そんなこんなで心が荒みまくっていたのであるが、フリーランスにお盆は関係なく、夫も通常通り仕事なため、我が家にとってお盆は「ちょっと街がすいてるただの平日」だ。
折しも、幸運なご縁で舞い込んだ取材仕事の予定がガッツリ入っていた。

フリーのライターをしていると、基本的に作業は自宅でするし一人である。でかける必要もなければ人と会話する必要もない。もちろん集中力は必要とされるので悩みごとの思考回路は一時的に遮断されるが、どうしても気分が内向きになる。

しかし、取材となると出掛けていって人に会う。TPOにあった服装をし、ヘアメイクもして、名刺をもって「onの私」になるわけだ。
そして取材先で人と接し、新しい情報に触れ、これをどう記事にしようかと頭をフル回転させる。
どんなに前夜気分が荒んで眠れなくても、仕事関係の場でしけた顔は出来ない。

取材が終わったら、(記事の内容にもよるが)タイムリーな発信が望ましい場合は、ダッシュで記事に取りかかる。今回もそのケースだ。編集部に電話して翌日の朝の発信に間に合うには何時までに入稿すれば良いかを確認し、帰り道のスタバに入って昼食をとりながら組み込みたい内容と構成を手書きで練る。(私は構成は手書き派だ) 写真を整理し、ダッシュで帰ってPCに文章を打ち込む。

悩みごとの入る隙はないのだ。


入稿して一息つき、家事にとりかかるとやはりまた思い出す。
なんとなく、また連絡がこないかななんてどこかで思わなくもない。
でも、前夜までの悲壮な気分ではなく、どこか少し割りきった心で考えている。悲しいことには違いない、でももう仕方ない、と。
仕事を仕上げたことによる自己肯定感からなのか、アドレナリンのせいなのかはわからない。ただ、集中せざるを得ない仕事があってくれたから少し癒されたことは確かなのだ。

前にもこういうことはあった。
恋人にふられたとき、家族とひどくもめて酷い言葉を吐かれたとき。
もうダメだと思ったけれど翌日には仕事にいくしかなく、そこにはやるべきことが山積みになっていてそれを淡々とこなすしかない。キーボードを叩きながら無意識に涙が溢れてきて慌てて席をたったこともあった。
それでも毎日毎日出勤すれば、仕事の間だけはいやなことを忘れられ、忘れられる時間を積み上げていくうちになんとなく傷は癒えていく。
問題は解決しない。でも、少しストレスが和らぐのだ。


単なる「時間グスリ」ととらえることも出来る。
でも私は「仕事グスリ」だと思う。お金をもらって働くからには集中せざるを得ない。集中は思考回路の切り替えだ。悩みのど真ん中にいた自分を一瞬でも外側に連れ出してくれる。
それによって、悩みを客観視できるのかもしれない。

仕事でなくても、没頭できる趣味でもいい。外に出掛けていくことなら尚良い。
とにかく悩みのど真ん中から一旦逃れ、客観的に見られる機会を作るのが実に大切だと改めて思った。
ストレスの量は減るし、解決に向けた違うアプローチが見つかるかもしれない。


怠け者で決して働き者とはいえない私がこんなにも仕事に救われるのも妙な話だが、これまで体感してきたように、今回もこの「仕事グスリ」がじわじわと効いてきてくれるのを信じて淡々と働こうと思う。


そして同時並行で、人を見る目と直感を、30代仕様にグレードアップさせておこう。
こんなにも心をかき乱されるのは、もうこれきりで十分だ。






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中学生のころから、女の子同士がやたらめったら「かわいいー❤」「○○ちゃんのほうがかわいいー❤」と言い合うのが、大っ嫌いでした。

例えば誰かが髪型を変えたとして、明らかに前の方が似合ってるのに
「えっ、超いいよ!成功だよ!」
とか言ってると、
それって全然やさしくないよなー…っと隣で思ってしまう。
私は
「爽やかになったね」とか「夏らしいね」とか
少なくとも嘘ではないことを言います。

また、
顔の造作が美しい人は「きれい」「可愛い」と誉めますが、
造作が特別美しいわけじゃないんだけど雰囲気が可愛いとか、性格の良さがにじみ出てる顔だちの場合は、
「可愛らしい」「上品な顔立ち」「愛くるしい感じ」「優しい顔立ち」などなど
それぞれに合った誉めかたを探します。

そして、目上の人。たとえば教師だからといって無条件には尊敬したことはありません。
「この人は肩書きは先生だけど、つまらない人だな」と思えば、文句言われないだけのこと(勉強や諸々の活動)はやっていましたが尊敬の念や服従の姿勢は微塵も見せませんでした。
そのかわり、この人は好き、尊敬できると思えば、どこまでも信頼してなついていましたが (笑)

周りの大人の顔色はおそらく普通の子供より見ていたと思います。でも、だからっておべんちゃらを言ったり媚びたりはしない。
期待を先読みし、それに応えることで信頼を勝ち得ようとする少女でした。


要は、
とりあえずテキトーに相手を誉めてりゃ人間関係うまく行くだろう

という考えが嫌いで、(こちらは意識的)

偉い人には媚びてほめそやして、いい気分になってもらおう

という考えが毛頭無かったのです。(こちらは嫌いとかでなく、思い付きもしなかった)


ただし、目上の人に対して不遜な態度をとっていたとか、意気がって反抗してたとかそういうことではありません。礼節は尽くしていました。両親からしっかりしつけられていましたし、周りからの評価も「しっかりしてきちんとした子」だったと思います。(自分でいうのもおこがましいですが)


その価値観は大学生になってからも変わらず、
愛想はいいし誰とでも感じよく接しはするけど、社交辞令は苦手、女同士の訳のわからない誉めあいも苦手。
本当に素敵と思ったときに「素敵」と言い、好きと思ったときに「好き」と言いました。
それは先輩が相手でも、教授が相手でも変わりません。

いろんなコミュニティーで本音と建前を使い分けては上手に立ち回る友人を見て、器用だなぁとは思いましたが、真似したいとは不思議と思わず、 まぁ私はこれでいっか、くらいに考えていました。
幸い周囲の友人や先輩後輩にも恵まれ、「ゆりって、ほんとに真摯だよね」と私の性格をポジティブに捉えてくれる人が多かったので、人間関係の苦労はほぼ全く無いといっていいくらいの大学生活でした。


ところが、

就職するとちょっと事情が変わったのです。


社会に出て仕事をするということはつまり、気のあうあわないに拘わらず、色々な人とうまくやっていく必要があります。

新卒で入った会社は外資系だったこともあってか非常に風通しがよく、上司であっても肩書きではなく「○○さん」と呼ぶのがルールでした。
緊張しまくりながらも私なりに精一杯の敬語と礼儀正しさで上司・先輩と接していたのですが、
ここでも、マネージャーだろうが本部長だろうが「対・人」であることに変わりはないので、ごますりもおべんちゃらも一切言わず、ほめそやしもしない私。

「今年の新人は、落ち着いてるね~」と、マネージャー陣のなかで話題だったそうですww

出来ればずっとここで働きたかったくらい良い会社でしたが、生来の生真面目さに加えて新人ならではの気負い、体力不足、レジリエンスの低さ、業務の複雑さ、色々な要因が重なりあって体を壊し、退職を余儀なくされました。


次についた職は、大学教授の秘書です。
何のコネか愛人かとさんざん聞かれた就職でしたがww普通に履歴書を送って面接を受けたことをここに明記します!ww

仕事をしはじめて知ったのですが、こちらの教授、秘書の入れ替わりが非常に激しいので有名だそう。つまり、教授の要求レベルが高いのか、もしくは秘書が愛想をつかすのか…。
でももうせっかく見つけた仕事ですから、それはそれは必死にこなしました。
大学院生をを50人かかえ、巨大な額の研究費をあてがわれている研究室の教授でしたので、秘書の仕事は教授の個人的な業務にとどまらず研究室の活動全体に及びました。秘書、総務、財務、経理、庶務を全部やる感じですwあ、あとお問い合わせ窓口(英語可)…これが一番きつかったかも。
先輩も同僚もいない状況で、全く知らない仕事をよくまわしたもんだなぁと今でも思います。

秘書の入れ替わりが激しいのが、何に起因していたのかは結局いまだもって不明ですが、
慣れてくるにつれてわかったことがあります。

●機嫌の良し悪しの波が激しい
●京都の方だからか、本音と建前が非常にはっきりしている(つまり二枚舌)
●適当に人をおだてて面倒なことを押し付ける(笑)
●控えめなようで、プライドが高い(まあ当然ですが)
そしてご機嫌が悪ければ
秘書は一番にその割りを食う


最後の一点がつらいところです。
段々と私も、上司との関係や異常な業務量にストレスを覚えるようになってきました。
「仕事とはそんなもんだ」と頭ではわかっていても、あまりに理不尽なことを言われたり、大切な業務報告をスルーされたりすると、胃が痛くなりましたし、イライラを押さえきれなくなりました。


そんな最中、私の状況をとある知人の年配女性に話したところ、私の目をじっと見て
「貴女、ちゃんとその先生をおだてて、気持ちよく仕事ができるようにしてる??」
と聞かれたのです。

へ??おだてて気持ちよく??

いえ、全然…。

「あのね、貴女は本当に人柄が誠実で、相手の身分や立場によって態度を変えたりしない。もちろん礼儀正しいけど、偉い人だからって、媚びたり、おべんちゃらをいったりもしないで、対等な人間同士という前提で堂々と接するわよね?」

はい…。

「それはね、身近な人たちにとってはこれ以上なく信頼できる人柄だし、きちんと人間の本質を見られる人にはとても重宝がられるの。でもね、世の中そういうひとばっかりじゃない。むしろ、もっと薄っぺらい人が大半なの。そういう人たちは、お世辞とわかっていても誉められたいし、プライドをくすぐってほしいし、特に社会的身分が高い人は持ち上げられることに慣れてるから、それをされないとなんとなく不満なのよ。」


目からウロコでした。

私にとっては、「教授」は勿論偉い人ですが、自分がきちんと実直に仕事をこなせば必要十分な上司と部下に過ぎず、お世辞をいったり持ち上げたりする対象では全くなかったのです。


さらに彼女の話は続きます。

「魑魅魍魎、有象無象な人が入り乱れてる世の中で、貴女だけが全員にその誠実さと正直さでぶつかって、いちいち傷つくのは損でしょう?価値観を変えるんじゃないの。貴女の根本はそのままでいい。ただ、場面や相手に応じてうまく相手をいい気分にさせることは、それが心からの言葉でなくても貴女自身を守ることになるのよ。大人になるにつれて、少しずつ身につけなさい。」

これは本当に、コペルニクス的転回とでもいうべきアドバイスで、
思ってもいないお世辞や誉め言葉を口にすることが自分を守ることになる。
という発想が前述の通り全くなかった私には、軽い衝撃ですらありました。

でも、不思議とスッと、腑に落ちたのです。


そこから、ぎこちないながらも、アドバイスを実践してみました。
「先生、さすがのご指摘ですね」
「やっぱり人望が厚くていらっしゃいますね」
「それは先生のお人柄ですよ~!」
何かにつけて「素敵ですね」「さすがですね」
もしかしたら最初は不自然だったかも知れませんが(笑)、ためしてみると不思議なくらい手応えがあるのです。
「いやいやー、僕はそんなそんな」
と言いながら、満面の笑み!
すると、そのあとの打ち合わせもするすると進みます。

人を持ち上げるって、こんなにも簡単なことだったのか…。そして、こんなにも効果的だったのか!


それまでなんとなく、本音でないことを口にするのは「良くない」イメージでしたが、子供の頃ならまだしも、大人になって広い世界で多くの人と関わるには、ずるいことではなく必要な処世術だと割りきることができました。
もちろんプライベートな付き合いや、ちゃんと向き合いたい相手にはこれまで通りです。
ただ、ちょっとお世話になるクリニックの医者、ブライダル関係のスタッフさん、仕事で円滑に業務を進めたい相手などとの間では、適度な「潤滑油」が効果的で、自分を守ってくれるんだといまでは思えます。


日本では、「不器用さ」や「実直さ」は、正直な人間としてのイメージが強く、ポジティブに捉えられます。

それ自体は良いことです。

でも、「不器用さ」や「実直さ」は、行き過ぎるとときに自分自身を苦しめます。
繊細なひとであれば傷つき戸惑うでしょうし、
強情なひとであれば軋轢を起こすかもしれません。

自分自身や、自分にとって本当に大切な人を守るためにも、

言葉のワンクッション

を、上手に使って、ほんの少し器用に生きてみるのも良いかもしれません。
自分の幹はそのままに。
「いつもありがとうございます。」「さすがですね」とちょっと口にしてみる。

それはずるいことではありません。
人の心の動きを、ちょっと滑らかにするだけです。


ーーーーーー
最近人との関わり方について考えるきっかけがあり、今日はこんなことについて書いてみました。考えてみた結果、根本はやはり私は変わっていないようです(笑)
どの人にも愛想は良いけど、心を開いたり本当に親しみや尊敬を感じるのはごく一部。

でも、ワンクッションは使ってますよ!病院とか歯医者とか美容院とか不動産屋さんとかクリーニング店なんかで!(笑)



ではではまた暑いので体調管理には気を付けてすごしましょうね~






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