明石家サンタが流れる聖夜、皆様いかがおすごしでしたしょうか。
ほんとはあれやこれや絡めて長々と書きたかったのですが、深夜書いてるのでサクッとサクッといきます。……なるべく。
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『聖おにいさん』という漫画をご存知だろうか?東京の立川で、休暇中のイエスとブッダがルームシェアするというブッ飛んだ設定の漫画だ。
イエスは言わずとしれたキリスト教におけるの神の子、ブッダは仏教の開祖。その二人の仲睦まじい共同生活の様子が面白おかしく描かれている。ギャグ漫画といっても差し支えないくらい、キリスト教と仏教の教義ネタを組み込んだギャグが散りばめまくられているが、ちっともどちらかを揶揄したり愚弄したりする空気はないし、本当にただただ面白く笑える。
でも、この漫画が何事もなく出版され、一般市民が手にとって爆笑してる国なんて、日本くらいじゃないかと思う。

知人のアメリカ人女性にこの漫画の話をすると、「あぁ、それは日本ならではね〜。アメリカでだったら問題になりそう。」と言っていた。
実際そうだろう。
クリスマスも初詣も楽しんでしまう、宗教へのこだわりが薄い日本だからこそ、問題にならないんだと思う。

私はクリスチャンホームに生まれた。両親は教会に通っていて、小さい頃は私も一緒に礼拝にいった。なので、お宮詣りも七五三もやってない。代わりに教会で「幼児洗礼」という儀式をうけた。
そして中学高校もキリスト教の学校だったので、
行事ごとにミサがあったし、宗教の授業もあった。だから私はキリスト教にはそこそこ詳しい。
ただ、私自身がクリスチャンかときかれると、そうでもない。どの宗教を信じているか絶対選べと言われればキリスト教だが、教会にも行ってないし、日常的に祈りを捧げる習慣もない。初詣にもいくし、おみくじもひくし、厄払いにもいく。お守りも持ち歩く。仏教の本も読む。無宗教といっても差し支えないだろう。

私がこういうふうになったのは、皮肉なことに育った環境が1番の要因だと思う。
我が家はプロテスタントだった。学校はカトリックだった。同じキリスト教でも、教義や戒律が微妙に異なる。マリア信仰があるか、偶像崇拝を認めるか、労働や財をなすことをよしとするか……そもそもカトリック教会に反発した宗教改革からはじまったのがプロテスタントなので、哲学が違う。
そんな2つの宗派どちらにも関わってみて、10代の私が感じたこと。
「アプローチが違うだけで、求めているものは同じなんじゃないか」

そもそも教義も戒律も、そのときの権力者にとって都合がいいように定められていることが多々ある。世界史を勉強した方ならご存知だろう。イギリス正教会がカトリック教会と袂を分かったのは、当時の王が離婚したいがためだった(カトリックでは離婚はタブーだ)。

でも、同じ神を信じ、一般の信者が祈ることは、今日も明日も食べるものがありますように、平和でありますように、死後の魂が救われますように、だ。

その思いは、高校で世界史や倫理を勉強してより強くなった。
仏教の思想はクリスチャンホームに生まれた私には新鮮だったが哲学として学ぶところが多いと思ったし、日本の歴史と強く結びついているだけに感覚的に理解しやすかった。
イスラム教は輪をかけて新鮮だった。完全に異文化だ。身近にイスラム教徒がいなかったし、遠い国の宗教という印象だったが、やはり哲学として興味深い。
そして勉強すればするほど思う。
「アプローチが違うだけで、求めているものは一緒なんじゃないか」

雑な考え方かも知れないが、結局、人智をこえた大いなる存在というものを人間は感じていて、それを探究したい、もしくはその大いなる存在にすがり祈ることによって、現世での平安や死後の魂の救いを得たい、どの宗教もそこに尽きるのではなかろうかと高校生なりに感じた。
もちろん、来世があるかとか、一神教か多神教かとか、宗教としての大きな違いはある。
でも信心の根本は同じな気がした。
人智をこえた大いなる存在の捉え方は、ちょうど手塚治虫さんの『火の鳥』の中で繰り返し描写されているイメージにも近い。大人になって初めて読んだとき、「これだ」と思った。

いまでもその考えは変わっていない。
宗教に、政治が結びつくからややこしい。政治や権力や民族の闘いに、大義名分として宗教がかかげられるからややこしい。
一部の過激な人々を除けば、真理を求め、魂の救済を求める素朴な一般市民の見ている先はきっと同じだ。方法論が違うだけだ。



平和ボケした日本人ならではの発想かもしれない。
聖☆おにいさんに、イスラム教の神アラーか、(アラーは描いてはいけないらしいので)預言者ムハンマドかが登場して、イエスとブッダと三人で仲良く立川でルームシェアしてほしい。
銭湯に行ったりTSUTAYAに行ったり、お互いの天使やら弟子やらを巻き込んでドタバタ劇を繰り広げてほしい。教義ネタをギャグにもりこんで大いに笑わせてほしい。
そしてそれが世界中で翻訳されるくらい、互いの
宗教や思想に寛容な世界であってほしい。
漫画の例はちょっと突拍子もないし、何千年の歴史がある宗教問題がそうあっさり解決するとは思わない。
でも、他の宗教を受容することは、自らの信仰を全うすることと何ら矛盾しない。自分が一神教を信じていて、隣の人が違う神を信じていても、自分にとっては自分の神が唯一神、隣人にとっては隣人の神が神。それで良いんじゃないのか。方法論が違うだけ。
この世に(あの世に?)もし神がいるとしたら、人類に争いを望んではいないだろう。不穏な空気に眉をひそめているはずだ。宗教は争いを希求するものではない。平和を希求するものだ。


クリスマスくらいは真剣に、宗教観と平和について考えてみました。
本当は映像の世紀と半沢直樹とリーガル・ハイも絡めたかったけど、とてつもなく長くなりそうだったのでこの辺で!

メリークリスマス!