情けは人のためならず、ということわざがある。

ご存じの通り、「人にしてあげた親切は自分に返ってくるよ」
という意味だ。


昨夜Twitterで、あるフォロワーさんとやり取りしていて、その方が「頭も容姿もいい知人が、憎まれ口ばかり叩くので人間関係で損していてもったいない」とおっしゃっていた。

私はそれを読んで
レコーディングダイエットみたいに、自分が口にした言葉を記録してみたらいいのにと思います。
とお返事したのだが、
我ながらいい思いつきだと思った(笑)

レコーディングダイエットとは、自分が食べたものをひたすら記録して、どれだけ沢山食べているかを可視化するという方法論です。


ひとは意外と、自分が発している言葉の内容に無頓着だ。
ときにはそれで人を傷つけたり、自分自身の印象を悪くしたりもする。

これは本当にもったいない。


言葉巧みになればいいという意味ではない。
私はやたらと饒舌で口八丁な人のことはどちらかというとあまり好きではないし、寡黙で朴吶な人から誠実さを感じることも多々ある。

そうではなくて、自分が発している言葉を見張った方がいいと思うのだ。


◇◇◇見張りが必要な理由◇◇◇◇

その理由は、さきほど書いたように、心ない言葉で人を傷つけたり、自分の印象を損なったりしないように、ということももちろんある。


それに加えて、言葉には「言霊」が宿るという考え方を私は結構信じている。
成し遂げたいことをずっと口にし続ければ叶うというし、実際(それにみあった努力があってこそだけど)実現させた人をたくさん見てきた。
何度も何度も口にすることで、潜在意識に刷り込まれるのだろう。
ポジティブな人はやはりポジティブな発言が多いし、ネガティブな人はネガティブな発言が多い。

「口は悪いけど根はいい人」の存在を否定はしないが、ある程度、口出す言葉のベクトルと内面のベクトルの向きには相関関係があると思う



さらに、脳は主語を認識できない、という学説がある。
どういうことかというと、もちろん意識のうえ(大脳新皮質:理性や知性の脳)では「私」「あなた」「Aさん」の区別がつくが、無意識つまり潜在意識の部分(大脳新皮質以外の感情を司る部分)では主語抜きで言葉を受け取ってしまうのだ。

たとえば、私が「Aさんて美人だね」と言うと、潜在意識は「美人」と言われているのが私だかあなただかAさんだかわからず、「美人だね」だけ吸収する。
つまり自分が「美人だね」と言われているのと同じように脳には作用するのである。

逆に、品のないたとえで申し訳ないが、私が「Bさんってブスだよね」と言ったとしたら、私自身が「ブスだよね」と言われているのと脳にとっては変わらない。


プラスの言葉や褒める言葉を口にすれば、それだけ自分に良い言葉をかけることになり、

マイナスの言葉や悪口を口にすれば、それだけ自分に悪い言葉をかけることになる。



「誉め言葉は人のためならず。」なのだ。


毎日毎日これが積み重なれば、結構な差が出るのではないだろうか。



◇◇◇◇◇◇◇

なんでこんなことを考えるようになったかというと、
私はもともとがネガティブ思考の人間で、放っておくとどんどんネガティブ発言を連発する。
しかも中高6年間を、クラスは女子ばかりという環境で過ごしたため、思春期女子特有の「ちょっとでも目立てば叩かれる」現象を回避するためにひたすら謙虚に謙虚に謙遜を重ねる習慣が骨の髄まで染み込んでしまった。
謙虚も謙遜も行きすぎるともはや卑屈で(笑)周りの人も愉快でないし、私自身にも不必要な自己評価の低さをもたらす。
そんなとき「脳は主語を区別できない」という説を本で読んで知った。

そういう経緯があって、二十歳くらいから自分の言葉に少し気をつけるようになった。
なるべくポジティブな言葉を口にする、卑下しすぎない、人の悪口を言わない。


アラサーになったいまはあまり溜め込むと体によくないかとちょっと自己検閲をゆるめていて(笑)ちょいちょいTwitterにネガティブ発言を転がすこともある。 
お目汚しですが、口に出すよりは文字で書く方がマイナスパワーは小さい気がするし、頭の整理をしているので、フォロワーの皆様におかれましては読み飛ばしていただくか寛大にお許しいただけると幸いです…。

◇◇◇◇◇◇◇
人間、綺麗事ばかりでは生きていけないし、愚痴や悪口を言わなきゃやってられないこともある。それも人間らしい愛すべき一面だと思う。

ただ、日々の発言の大半が愚痴や憎まれ口や悪口では、周りも愉快でないし自傷行為も同然だ。

ためしに少し自分の言葉を見張ってみるのもオススメである。



それでは今日はこの辺で

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